『初恋』 ツルゲーネフ(光文社古典新訳文庫)

初恋 (光文社古典新訳文庫)初恋 (光文社古典新訳文庫)
(2006/09/07)
トゥルゲーネフ

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書名:初恋
著者:ツルゲーネフ
訳者:沼野 恭子
出版社:光文社
ページ数:184

おすすめ度:★★★★★




ツルゲーネフの作品の中で最もよく読まれているのがこの『初恋』だろう。
人間性を深く掘り下げるのが正統ロシア文学だとすれば、『初恋』は必ずしもロシア文学らしくない軽めの作品であるが、逆にその読みやすさが受けているのだろう。
ツルゲーネフの代表作である『初恋』、自信を持ってお勧めできる傑作だ。

『初恋』の主人公はまだ若い青年である。
そんな彼が近所に住むコケティッシュな年上の令嬢に恋をするが、まだ子供だとあしらわれているうちに、彼は恋敵が存在することを知ってしまう。
嫉妬心と好奇心の入り混じった複雑な気持ちを抱きながら、彼は恋敵の正体を見極めようとするが・・・。
若き青年の淡い恋という非常に共感しやすいテーマが読者を作品に没入させ、予想外の展開が読者の記憶に焼き付けられる秀作をぜひ味わってみてほしい。
ツルゲーネフの優しい書きぶりも読んでいてとても気持ちがよく、この『初恋』はなにしろ悪い評判を聞かない本の一つである。
今日の日本であまり読まれていないツルゲーネフの他の作品、たとえば『父と子』などを読むきっかけとしてもらえればと思う。

これは余談だが、最近では本書のようにツルゲーネフを「トゥルゲーネフ」とも表記するようになったらしい。
よりロシア語の音に近付けてのことなのだろうが、私はどうにも「トゥルゲーネフ」に馴染むことができず、いまだに「ツルゲーネフ」を貫いている。
あまり新訳の出ないツルゲーネフだけに、「トゥルゲーネフ」が浸透するまでには時間がかかるように思うが、最近は「トゥルゲーネフ」が普及していっているのだろうか。

『初恋』という表題どおりのほんのり温かくも哀愁に満ちたストーリーが、これまで多くの人の心を揺さぶってきたことは疑いようがない。
難しいところが一切なく、大き目の活字でも184ページと厚い本でもないので、ぜひ気楽に手にしてみていただきたい。
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『父と子』 ツルゲーネフ(新潮文庫)

父と子 (新潮文庫)父と子 (新潮文庫)
(1998/05)
И.С. ツルゲーネフ

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書名:父と子
著者:ツルゲーネフ
訳者:工藤 精一郎
出版社:新潮社
ページ数:357

おすすめ度:★★★★★




保守的な父親と進歩的な息子との、世代間の主義・主張の対照を描いたのがこの『父と子』である。
宗教や科学、政治思想や社会思想など、世代が変わればその信ずるところも変わってしまうという側面がここまで明確に示される小説もあまり多くはないだろう。
初恋』と同様、ツルゲーネフの代表作であるばかりではなく、当時のロシア文学の中でも非常に高い評価を得ている傑作なので、ぜひ読んでみていただきたい。

大学を終えた息子とその友人が、田舎の父の元へ帰ってくるところから物語は始まる。
再会を楽しみにしていたにもかかわらず、それぞれが看過できない溝を感じてしまい、価値基準の一致しない親子関係はどことなくぎくしゃくしたものとなる。
愛すべき相手であるとはわかっているものの、お互い相手を古すぎて、もしくは新しすぎて理解しがたい存在であると思ってしまうのだ。
ツルゲーネフの優しい筆は『父と子』においても存分に発揮されていて、ペーソス漂う素晴らしい作品に仕上がっている。

いつの世においても、矛盾に満ちた社会や権威を否定するのは比較的容易なことで、学をつけた人間は自信を持ってその批判を行う。
そのような斜に構えた姿勢の登場人物に、友人や親戚などの身近な人や、ひょっとすると自身の経験など、思い当たる節のある読者もいるのではなかろうか。
とはいえ、『父と子』で述べられるニヒルな見解は、今日の読者からすればすべてがすべて破壊的な虚無主義者の言とは思えないはずである。
現代人は昔の人々と比べればニヒリスト的傾向を強めていっているのかもしれない。

ツルゲーネフの小説は決して難解ではないので、やや思想性の強い作品であるこの『父と子』でさえ、たいていの読者はすらすら読めることと思う。
仮に述べられている思想について理解できない部分があっても、親子のジェネレーションギャップをテーマにした作品として読むだけでも十分楽しめるはずなので、一読をお勧めしたい。

『猟人日記』 ツルゲーネフ(岩波文庫)

猟人日記 上 (岩波文庫 赤 608-1)猟人日記 上 (岩波文庫 赤 608-1)
(1958/05/06)
ツルゲーネフ

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猟人日記 下 (岩波文庫 赤 608-2)猟人日記 下 (岩波文庫 赤 608-2)
(1958/10/05)
ツルゲーネフ

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書名:猟人日記
著者:ツルゲーネフ
訳者:佐々木 彰
出版社:岩波書店
ページ数:302(上)、306(下)

おすすめ度:★★★★




ツルゲーネフの代表作の一つに数えられる短編集、『猟人日記』。
ツルゲーネフ自身は貴族階級の人間だが、この作品においては狩猟中の有閑階級と貧しい人々との交わりをとても柔和なタッチで描いていて、農奴制の廃止にも大きな影響を与えたらしい。
本作が原因で、農奴制に反対したとみなされたツルゲーネフが逮捕されたと知れば、『猟人日記』に興味の湧いてくる方もおられることだろう。

貧しいながらも健気に生活している人々を、温かな目で見守る「猟人」。
上流階級に属する「猟人」に対しては、気持ちのよい接待をしてくれる優しい人々とも言えるが、裏を返せば身分の格差を如実に示しているという、社会の悲惨さもはらんだ関係性だ。
そうはいっても、弱者に優しい「猟人」の人間的魅力は、そのままツルゲーネフの以後の作品におけるぬくもりに通ずるのではないだろうか。

『猟人日記』を語る際に忘れてはならないのが二葉亭四迷だ。
彼は『猟人日記』の中の一編を「あひゞき」として翻訳紹介していて、それが後に白樺派などに多大な影響を与えることになる。
明治・大正期にはロシアの代表的な作家としてツルゲーネフがよく読まれていたらしいが、現在ではドストエフスキーとトルストイという二大巨匠に押されがちになってしまっているようだ。
ツルゲーネフのようにたいへん魅力のある作家があまり読まれなくなっているというのは非常に残念なことに思われる。

美しく静かな林を練り歩く「猟人」と共に、ロシアの大自然と素朴な庶民に触れる。
ロシア文学中、最も人間味あふれる作品の一つである『猟人日記』、読んでいる人まで優しい気持ちになることのできる名作である。

『ルーヂン』 ツルゲーネフ(岩波文庫)

ルーヂン (岩波文庫 赤 608-3)ルーヂン (岩波文庫 赤 608-3)
(1961/08/05)
ツルゲーネフ

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書名:ルーヂン
著者:ツルゲーネフ
訳者:中村 融
出版社:岩波書店
ページ数:219

おすすめ度:★★★★




ロシア文学の一つの系列として、「余計者」と呼ばれる人間を描いたものがある。
エヴゲーニイ・オネーギン』、『オブローモフ』などと並び、『ルーヂン』はその代表とされる作品の一つであり、長編作品ながら短めなので、「余計者」の典型を知るうえでは最適の一冊である。
ツルゲーネフは「余計者」を主人公にした作品を何点か発表しているので、また、「余計者」という語自体がツルゲーネフに由来するらしいので、ロシア文学に興味のある人であればツルゲーネフの描いた「余計者」をぜひ一度読んでみてほしいと思う。

頭の中で観念をこね回すことに明け暮れ、現実行動を起こさないでいる男、ルーヂン。
高い理想を掲げ、優れた知性を披露するものの、いざという時の決断力に欠け、結局積極的な行動を避けて通ってしまう。
当時のロシアのインテリゲンチャ、その一つの典型として読むことができるだろう。

政治情勢の変化により青年たちの活躍の場が奪われたことが、社会的に有益な働きをなさない多くの「余計者」を生んだ一因だと言われている。
しかしこの「余計者」という概念に向き合ってみたとき、自らは「余計者」ではないと断言できる人が今日の日本にどれだけいるのだろうか。
そういう意味では、とても意味深長で息の長いテーマを含んでいる作品だといえよう。
果たしてルーヂンは「余計者」なのか、結末まで読み通した上で、各々の読者が判断してもらえればと思う。

「余計者」を主人公にした作品は、同じくツルゲーネフの『父と子』を除けば、たいていがあまりメジャーな作品ではない。
この『ルーヂン』にしても、個人的にはいつ再版されてもおかしくない興味深い小説だと思うのだが、中古でしか手に入らないのが現状だ。
『ルーヂン』をはじめ、ロシア文学の一潮流である「余計者」が再評価される日がやってくることを期待したい。

『処女地』 ツルゲーネフ(岩波文庫)

処女地 (岩波文庫)処女地 (岩波文庫)
(1974/03/18)
ツルゲーネフ

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書名:処女地
著者:ツルゲーネフ
訳者:湯浅 芳子
出版社:岩波書店
ページ数:484

おすすめ度:★★★☆☆




ツルゲーネフには政治的・社会的なテーマを扱った作品が数点あるが、この『処女地』はそのうちの一冊。
社会をよくしようとナロードニキ運動に参加する若者たちを描いた作品で、当時のロシア社会からすれば問題作の一つであったことだろう。
ツルゲーネフの政治・社会に対する関心の高さを窺える作品である。

ツァーリによる絶対権力が健在の中で行われる運動だけあって、ナロードニキ運動はどこか謎めき、その雰囲気を一語で表すならば、疑心暗鬼という語こそがふさわしい。
あくまで作品に漂う雰囲気だけに限って言うと、ドストエフスキーの『悪霊』に似たところがないわけではない。
身の危険を顧みずに自らの理想の実現のために行動する青年たちは、その成果が乏しかろうとも、強く読者の胸を打つ。
自らの信念に従い行動する若者たちの運命、私はこの点を最大の読みどころだと思うのだがいかがだろうか。

ツルゲーネフの思想は、同じく貴族出身のトルストイと比較してみると非常に面白いはずだ。
ゴーゴリやドストエフスキーなどとは違い、どちらも生活に困る身分ではなかったにもかかわらず、社会の改良に対する関心が非常に高いのだ。
当然ながら、彼らの考える社会の改良によって境遇が改善されるのは社会の下層に位置する民衆である。
貧しい人々のために何かせずにはいられないツルゲーネフにトルストイ、彼らのことを考えると、私はフランス革命期にも民衆の味方をする貴族が少なからず存在したことを思い出さずにはいられない。
仮にも貴族を名乗るからには、こういった心情面での高貴さを持っていてしかるべきなのだろう。

現在新品での入手は非常に困難のようだが、ロシア文学やツルゲーネフに興味のある人なら『処女地』は必ずや楽しめる作品である。
初恋』とは一風変わったツルゲーネフを知りたい方にはお勧めだ。
『処女地』を気に入られた読者は、作者の国も時代も変わるが、ロシア人革命家を描いたコンラッドの『西欧人の眼に』も必ずや楽しめることと思うので、こちらも合わせてお勧めしたい。

『片恋・ファウスト』 ツルゲーネフ(新潮文庫)

片恋・ファウスト (新潮文庫)片恋・ファウスト (新潮文庫)
(1952/06)
ツルゲーネフ

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書名:片恋・ファウスト
著者:イワン・ツルゲーネフ
訳者:米川 正夫
出版社:新潮社
ページ数:174

おすすめ度:★★★★




ツルゲーネフの円熟期の中編二編を収めたのが本書『片恋・ファウスト』だ。
ライン河のほとりの町を舞台にした『片恋』と、いかにもドイツらしい雰囲気を帯びたタイトルである『ファウスト』ということで、どちらもほのかにドイツの香りが漂ってくる作品である。
ロシア以外の文学にも通じ、ロシアの外での暮らしが長かったツルゲーネフらしい二編と言えるのではなかろうか。

『片恋』の原題は『アーシャ』で、近年では『アーシャ』とされることの方が増えてきているが、本書では二葉亭四迷による訳題を受け継いで『片恋』としているとのこと。
作中においては物語の語り手よりも自由奔放なアーシャの存在の方が格段に異彩を放っており、そういうわけでツルゲーネフも彼女に比重を置いた表題『アーシャ』を用いたのだろうから、読者に何らかの先入観を植え付けかねない『片恋』よりも『アーシャ』の方が表題としては優れているかもしれない。
いずれにしても、中編小説としての『片恋』もしくは『アーシャ』の出来は素晴らしく、ツルゲーネフのファンでなくとも楽しめる作品の一つに数えられるだろう。

『ファウスト』の方は、大方の読者が想像するとおり、ゲーテの『ファウスト』にちなんだ作品である。
ろくに読書もしたことがないという美しい人妻に主人公がゲーテの『ファウスト』を朗読してあげることになり、二人の運命が変わっていくのだが・・・。
主人公が友人に宛てた書簡というスタイルを取っていて、小説の形式として少々古いのは事実であるが、今日の読者が読んでも十分感銘を受けることができる佳作であるように思う。

『片恋・ファウスト』は中古でしか手に入らないのが現状であるが、それほどレアな本ではないため、アマゾンでは非常に安く売られている。
訳文が少々古いとはいえ、読みにくいというほどでもないので、ツルゲーネフに関心のある方はぜひ手にしていただければと思う。
きっとどことなく『初恋』や『猟人日記』に似た、諦念と優しさを基にしたツルゲーネフらしいペーソスに触れることができるに違いない。

『散文詩』 ツルゲーネフ(岩波文庫)

散文詩 (1958年) (岩波文庫)散文詩 (1958年) (岩波文庫)
(1958)
ツルゲーネフ

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書名:散文詩
著者:イワン・ツルゲーネフ
訳者:神西 清、池田 健太郎
出版社:岩波書店
ページ数:210

おすすめ度:★★★★




晩年のツルゲーネフの散文による小品を集めたのがこの『散文詩』である。
生前に出版された約50編に加え、手稿の形で残っていたもの約30編をも収録しており、そのテーマは多岐にわたっていて読み応えがある。
それらの多くは本来ツルゲーネフが『散文詩』という本にしようとの意図をもって書かれていたわけではなく、前半の50編は特に、どちらかといえば断片・断章という性格の散文のようでもあるが、晩年のツルゲーネフの心境を探る上で貴重なエッセンスの集まりとなっていることは確かだ。

『散文詩』が扱うテーマは、人間はもちろんのこと、動物や自然に関するものが多く、政治思想色は薄いといっていいように思う。
細かい相違点を挙げればきりがないにせよ、ツルゲーネフが作家生活を始める契機となった作品である『猟人日記』に通ずる雰囲気も垣間見られるように感じられる。
ツルゲーネフの魅力の一つである優しい思いやりの感じられる文章に出会うことができるので、ツルゲーネフを好きな方にはぜひ本書をお勧めしたい。

『散文詩』に収録されている作品はいずれも数ページで終わる小品ばかり。
ツルゲーネフ自身が読者に対し、一気に読み通さずに気の向くままに紐解いてくれるよう言っていたようで、読者はそれに従うのが賢明かもしれない。
通常の詩集と同じく、何度も気軽に立ち返ることができるのも『散文詩』のいいところだ。

幅広い読者の心を揺さぶりうるのがこの『散文詩』であり、それが証拠にこれまでにだいぶ版を重ねてはきているのだが、現在新品はほとんど出回っていないようだ。
改訳を終えることなく世を去られた神西氏の訳業をベースに池田氏が完了された訳文は読みやすく、挿絵が豊富に入っているのも読者の目を楽しませてくれる。
ツルゲーネフの代表作ではないし、その性質上、代表作にはなりえないかもしれないが、自信を持ってお勧めできる作品の一つだ。

『春の水』 ツルゲーネフ(岩波文庫)

春の水 (岩波文庫)春の水 (岩波文庫)
(1961/07/25)
ツルゲーネフ

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書名:春の水
著者:イワン・ツルゲーネフ
訳者:中村 融
出版社:岩波書店
ページ数:263

おすすめ度:★★★☆☆




「春の水」のごとく流れ去っていく、楽しくも幸多き青春時代を描いたツルゲーネフの円熟期の長編作品がこの『春の水』だ。
ツルゲーネフには『初恋』や『片恋』のように、恋愛をテーマにした作品がいくつかあるが、これもそのうちの一つに数えることができるだろう。

『春の水』は、初老に差し掛かった主人公の回想を綴るという体裁で進んでいく。
回想の舞台となる町はフランクフルト。
主人公サーニンは、散策の疲れを癒そうと思って入った喫茶店で、意識を失った弟の命を助けてほしいと懇願する美しいイタリア娘と運命的な出会いを果たす。
彼女から優しく声をかけてもらい、彼は徐々に彼女の魅力に惹きつけられていくのだが、しかし彼女には婚約者がいて・・・。

上記の『春の水』の冒頭部分に描かれる情景は、若き日のツルゲーネフが実際に体験したものらしい。
本書に付せられた5ページに満たない解説を参考にする限りでは、この小説のどこまでが事実でどこからが創造によるものなのか、明確な線引きをすることは難しいが、いずれにしても、作家の身に起きた実際の出来事をベースにした物語ということで興味をそそられるし、主人公と同じく初老のツルゲーネフが自らの過去を追憶しているという事情のおかげで、小説作品としてのリアリティも増しているように思う。
また、いくらかステレオタイプ的な判断ではあるものの、ツルゲーネフのドイツ人やイタリア人に対する評言も読むことができて興味深い。

あまり知名度の高くない作品である『春の水』は、初版以降さほど版を重ねてもいないので、流通量自体は非常に少ないはずだ。
それにもかかわらず、アマゾンでは定価のおよそ10分の1程度と、安価での入手が可能となっている。
初恋』や『片恋』でツルゲーネフの恋愛小説に関心を持たれた方にお勧めしたい。

『貴族の巣』 ツルゲーネフ(角川文庫)

貴族の巣 (1951年) (角川文庫〈第106〉)貴族の巣 (1951年) (角川文庫〈第106〉)

書名:貴族の巣
著者:イワン・ツルゲーネフ
訳者:米川 正夫
出版社:角川書店
ページ数:306

おすすめ度:★★★★




ツルゲーネフが代表的な作品の多くを物していた頃に発表された、いわば脂ののりきった時期に書かれた長編作品の一つがこの『貴族の巣』である。
何らかの社会問題を鋭く突くというツルゲーネフらしさはあまり感じられないが、「余計者」の系譜に連なる主人公が登場する『貴族の巣』は、やはりツルゲーネフやロシア文学に関心のある読者を存分に楽しませてくれるに違いない。

妻の不貞に打ちひしがれ、諦念を帯びたラヴレーツキイが郷里の町へと帰ってくる。
久々に顔を出した親戚の家では、かつてはまだ幼かった少女のリーザが、今では一人前の娘になっていて、将来有望な官吏から求婚されるまでになっており・・・。
「余計者」としてのラヴレーツキイは言うまでもないが、『貴族の巣』の読みどころとして、ヒロインであるリーザの人物造形も挙げることができる。
敬虔で、無私の心を持つリーザの美しさは、時代を超えて人々を魅了し続けることだろう。
貴族の巣 (岩波文庫)貴族の巣 (岩波文庫)貴族の巣 [DVD]貴族の巣 [DVD]

信頼できる米川正夫氏が訳者であるということで、私は角川文庫を選んだが、『貴族の巣』は右に示すように岩波文庫からも出されていて、数はそう多くないがいまだに入手可能ではあるようだ。
また、製作年代自体はそう新しくないが、近年DVDが発売された映像化作品もあるので、『貴族の巣』の読者にはこちらもお勧めしたい。

主要登場人物の生い立ちから、脇役の境遇に至るまで、しっかりと描かれているのが『貴族の巣』の特徴で、それだけ印象深い作品世界が形作られているように感じられる。
作品に力強さこそ感じられないものの、全体の調和が取れていて心地よい柔らかさが漂う『貴族の巣』をツルゲーネフの最高傑作だと考える読者がいてもまったく不思議はない。
ツルゲーネフに興味のある方であれば手にしてみる価値のある一冊だと思う。

『その前夜』 ツルゲーネフ(岩波文庫)

その前夜 (1951年) (岩波文庫)その前夜 (1951年) (岩波文庫)

書名:その前夜
著者:イワン・ツルゲーネフ
訳者:湯浅 芳子
出版社:岩波書店
ページ数:280

おすすめ度:★★★★




『その前夜』は、ツルゲーネフ初期の長編作品の一つだ。
ツルゲーネフが創造し続けたタイプである「余計者」の系列に属さない積極的に行動する人物を描いたことで、『ルーヂン』や『貴族の巣』などとは異なる雰囲気を帯びた作品に仕上がっている。
ツルゲーネフの他の作品と比べると思想性は弱めかもしれないが、その分ドラマ性に富んでいるのが特徴だ。

二人の青年が、慈しみに富んだ乙女エレーナに恋している。
そのうちの一人が彼女の心をとらえたかのように思えたのだったが、故国の解放を生き甲斐とするブルガリア人を彼女に紹介してからというもの、形勢が変わっていき・・・。
女性を描くのが巧みなツルゲーネフだけあり、ヒロインであるエレーナもまた見事に造型され、描写されている。
『その前夜』の読者の記憶に最も強い印象を残すのは、優しくとも確固たる芯の通った女性であるエレーナになるのではなかろうか。

『その前夜』もまた、ツルゲーネフが得意とする恋愛小説の一つであると言っていいだろう。
そうはいっても、単に恋愛の枠に収まりきらず、人生そのもの、ひいては社会のあり方についてまで考えさせる力を持っているのは彼の他の作品同様である。
そしてツルゲーネフの取り上げるテーマは普遍的な要素を多く備えているから、一世紀半前のロシアの作品とは思えないほど、現代性がまったくしなびていないことに読者は驚かされるに違いない。

『その前夜』は、読後に半ば悲しいような、半ば空しいような、独特の憂愁を与えながら幕を閉じる。
そしてこれこそがツルゲーネフの作品ならではの味わい深さなのだろうが、『その前夜』においてその味わい深さに不足を感じる読者はまずいないのではないかと思われる。
翻訳紹介されることが少ない作品ではあるものの、ツルゲーネフの作品を好む方にはお勧めの一冊と言えるだろう。

『けむり』 ツルゲーネフ(河出書房新社)

世界文学全集〈第9〉プーシキン,ツルゲーネフ スペードの女王 猟人日記 けむり 他(1962年)世界文学全集〈第9〉プーシキン,ツルゲーネフ スペードの女王 猟人日記 けむり 他(1962年)

書名:けむり
著者:イワン・ツルゲーネフ
訳者:神西 清
出版社:河出書房新社
ページ数:457

おすすめ度:★★★★




ツルゲーネフ円熟期の長編小説の一つがこの『けむり』である。
思想色の濃い恋愛小説とでも呼べそうな作品であるか、いかにもツルゲーネフらしい読み応えのある作品になっており、ツルゲーネフに興味のある方には非常にお勧めだ。

バーデンを訪れているロシア人の青年リトヴィーノフは、婚約者の合流を待っている身であった。
しかし、そんな折に、かつて相思相愛でありながら、彼を捨てていった美貌の女性と10年振りの再会を果たしてしまったものだから・・・。
『けむり』には、恋愛感情を軸とした心理描写もさることながら、重みのある人物、重みがありそうには見えるが実は薄っぺらな人物、はたまた露骨に軽薄な人物など、いろいろな種類の登場人物から成る当時のロシア社会の上流社会やインテリ層が活写されている。
また、物語の終盤に至って顕在化する『けむり』という表題の奥深さを考えてみるのも面白いように思う。

『けむり』は岩波文庫からも出されているが、こちらは仮名遣いが古く、読みにくいと感じられる読者もいるかもしれない。
私が読んだ河出書房の文学全集のほうは、プーシキンとツルゲーネフを収めた作品集となっていて、プーシキンの『ベールキン物語』と『スペードの女王』、抄訳ではあるがツルゲーネフの『猟人日記』も収められている上に、肝心の『けむり』が名訳者として知られる神西氏の訳業であるというメリットもあるので、活字が小さいという難点はあるにせよ、お勧めできる。

ツルゲーネフの小説は読みやすく、それでいてとても面白いのが常であり、本書『けむり』もその例外ではない。
ツルゲーネフのことを個性の強い作家であるとは言えないかもしれないが、良識と品格に裏打ちされたツルゲーネフの作品は、どこか王道的な小説といった威厳を備えているようにも感じられる。
作品の質の割りに、あまり数多く出回っていないようなので、『けむり』の入手は急いだほうがいいかもしれない。
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