『ペール・ゴリオ』 バルザック(藤原書店)

ペール・ゴリオ パリ物語 バルザック「人間喜劇」セレクション (第1巻)ペール・ゴリオ パリ物語 バルザック「人間喜劇」セレクション (第1巻)
(1999/05/30)
バルザック、Honor´e de Balzac 他

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書名:ペール・ゴリオ
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:鹿島 茂
出版社:藤原書店
ページ数:466

おすすめ度:★★★★★




ゴリオ爺さん [DVD]ゴリオ爺さん [DVD]
(2008/04/23)
シャルル・アズナヴール、チェッキー・カリョ 他

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バルザックの代表作として知られる『ペール・ゴリオ』。
これまで日本語訳としては『ゴリオ爺さん』が一般的だったが、藤原書店版の「人間喜劇」セレクションでは『ペール・ゴリオ』と題されている。
『ペール・ゴリオ』は、バルザックが初めて「人物再登場法」を用いたことでも名高く、バルザックの作品群においてのみならず、文学史上においてもきわめて重要な作品の一つだ。
筋も非常に面白く、良い点も悪い点も含めてバルザックらしさが全開となっているので、バルザックを初めて読む人に特にお勧めである。

右のDVDはフランスで映像化された『ゴリオ爺さん』で、比較的原作に忠実に作ってあるように思う。
時間の制約からか、全般に多少駆け足のような気がしないでもなかったが、漠然とではあれ当時の雰囲気をつかむことができるし、母国フランスで今日バルザックがどのような形で鑑賞されているかも知ることができるので、バルザックファンなら必見だ。

『ペール・ゴリオ』で特に注目に値する登場人物は、タイトルロールであるゴリオ爺さんはもちろん、田舎から出てきたばかりの若き日のラスティニャック。
彼にはバルザックの小説を読み続けていれば何度となくお目にかかることだろう。
駆け出しの頃のラスティニャックを見ることができる『ペール・ゴリオ』は、後になって彼に関する描写だけを読み返してみるだけでも興味深いはずだ。
同じく登場頻度の高い人物である銀行家のニュシンゲンにも目をつけておくべきかもしれない。

とはいえ、『ペール・ゴリオ』の中で最も注目してほしい登場人物は、怪しげな雰囲気を漂わせる男、ヴォートランだ。
彼には実在のモデルがいて、バルザックも面識があったらしい。
『ペール・ゴリオ』だけを読むと、ただの小悪党として見過ごしてしまいがちだが、彼は後の作品『娼婦の栄光と悲惨』において縦横無尽の大活躍を見せることとなる。
人間喜劇の全登場人物の中でも、人気、知名度、共に非常に高く、バルザックが創作した何百という人物たちの中で最も印象的で魅力的な人物の一人だろう。

藤原書店から出版されたこの「人間喜劇」セレクションは、いわゆるヴォートラン3部作を網羅している。
過去にバルザックの全集も存在したが、人間喜劇の中でも特に興味深い一連の作品を手に取りやすい形で出版してくれた藤原書店にはただただ感謝である。
私にしたところで、このセレクションがなければ今ほどバルザックを好きになっていたかどうか・・・。
『ペール・ゴリオ』を読まれた方は、ぜひ『幻滅』、『娼婦の栄光と悲惨』と順を追って読み進めてみていただきたい。
必ずやバルザックの、人間喜劇の、そしてヴォートランの魅力に引き込まれ、もっとバルザックの作品を読んでみたいと感じられることと思う。
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『幻滅』 バルザック(藤原書店)

幻滅 ― メディア戦記 上 (バルザック「人間喜劇」セレクション <第4巻>)幻滅 ― メディア戦記 上 (バルザック「人間喜劇」セレクション <第4巻>)
(2000/09)
バルザック、鹿島 茂 他

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幻滅―メディア戦記〈下〉 (バルザック「人間喜劇」セレクション)幻滅―メディア戦記〈下〉 (バルザック「人間喜劇」セレクション)
(2000/10)
バルザック、Honor´e de Balzac 他

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書名:幻滅(上・下巻)
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:野崎歓、青木真紀子
出版社:藤原書店
ページ数:480(上)、472(下)

おすすめ度:★★★★★




ペール・ゴリオ』に続き、ヴォートラン3部作の第二作目がこの『幻滅』。
3部作とはいっても、本作におけるヴォートランの暗躍は最小限に抑えられているから、3部作という観点からすると『娼婦の栄光と悲惨』へのつなぎ、もしくは導入としてとらえたほうがいいだろう。
しかしこの『幻滅』、ヴォートランの登場は少なくても読者を魅了する力は十分に持っている。

人間喜劇中で地方生活情景に分類されているように、アングレームという田舎町で物語りは始まる。
主人公は詩人を夢見る若き田舎の青年リュシアン、幸か不幸か彼は容姿端麗なのだが、そんな彼がパリに上京、いつしかジャーナリストとしての成功を目指し始め・・・。
結果的にはジャーナリズムの腐敗を痛烈に風刺した作品にもなっているのだが、「メディア戦記」と副題が付けられているのはそういうわけだろう。
とはいえ、あまりこの副題自体が必要なものであるとは思えないけれども。

ところでこのリュシアン、時として腹立ちを覚えてしまうほどに情けない男で、決して魅力的な人格を備えた主人公とは言い難い。
しかし、けっこうなページ数を誇る『幻滅』を読み通せば、おのずとリュシアンの先行きに興味も湧いてくるはずだ。
続編である『娼婦の栄光と悲惨』においてリュシアンがどのような運命をたどることになるのか、ぜひ読み進めてみていただきたい。

バルザックといえば借金大王としても有名だが、個人的な経験のおかげでその事情に通じているからか、作品中でも借金や手形、破産や高利貸しへの言及はきわめて多い。
セザール・ビロトー』は破産物語だし、『ゴプセック』は高利貸しの話、『骨董室』は借金のやり繰り算段が主筋であるし、バルザックの小説から金の話を抜き取ったら、多くの小説がそれはそれは味気ないものとなってしまうに違いない。
そして本作『幻滅』でも、やはり金が大きく物を言う。
バルザックを好きになれるかどうかの一つの分かれ道は、ひょっとするとこれら延々と続く金の話を面白いと思えるかどうか、この点にあるのだろうか。

田舎から若い青年が上京し成功をつかもうとする。
あらすじだけをざっと見るならば、ゴンチャロフが『平凡物語』で描いたような、いかにも「平凡」な話なのかもしれない。
しかし、そこはバルザックの腕の見せ所、欲望と愛情が織り成した、浮き沈みのあるストーリーに読者は強く惹きつけられることだろう。
そしてそこに輝きを添えるのは、そう、金だ。
『幻滅』は、とてもバルザックらしい傑作長編の一つとして非常にお勧めである。

『娼婦の栄光と悲惨』 バルザック(藤原書店)

娼婦の栄光と悲惨―悪党ヴォートラン最後の変身〈上〉 (バルザック「人間喜劇」セレクション)娼婦の栄光と悲惨―悪党ヴォートラン最後の変身〈上〉 (バルザック「人間喜劇」セレクション)
(2000/12)
バルザック

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娼婦の栄光と悲惨―悪党ヴォートラン最後の変身〈下〉 (バルザック「人間喜劇」セレクション)娼婦の栄光と悲惨―悪党ヴォートラン最後の変身〈下〉 (バルザック「人間喜劇」セレクション)
(2000/12)
バルザック

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書名:娼婦の栄光と悲惨(上・下巻)
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:飯島 耕一
出版社:藤原書店
ページ数:440(上)、432(下)

おすすめ度:★★★★★




ヴォートラン3部作の第3作目、『娼婦の栄光と悲惨』。
これは面白い、四の五の考えずにストーリーを追って読み進めていくだけでも十分面白い。
3部作の前2作においてヴォートランの活躍に物足りなさを感じていた読者も、『娼婦の栄光と悲惨』を読んでなお彼の働きに不満が残るということはないだろう。
バルザックのすべての作品に目を通したわけではないが、『娼婦の栄光と悲惨』こそ、現時点で私が思うバルザックの最高傑作だ。

『娼婦の栄光と悲惨』は、『幻滅』の続編に当たる。
3部作とはいっても、『ペール・ゴリオ』と『幻滅』との間に筋の上での直接的なつながりはないが、『娼婦の栄光と悲惨』を『幻滅』と切り離して考えることは不可能であるほどに話がつながっているので、『幻滅』を先に読んでおくとさらに面白みが増すはずだ。
幻滅』の主人公であるリュシアンは、『娼婦の栄光と悲惨』でもまた主要登場人物であり、彼のその後の運命が語られている『娼婦の栄光と悲惨』は、『幻滅』の読者には非常に興味深いものとなるだろう。

『娼婦の栄光と悲惨』は、娼婦とそれを取り巻く男たちの物語であると要約できなくもないが、終盤にさしかかってからのヴォートランの目覚ましい活躍ぶりと、彼を中心とした急展開の連続によって、『娼婦の栄光と悲惨』を読み終えた読者は、もっぱらヴォートランの物語を読んでいたかのような錯覚に包まれるかもしれない。
これはなにもバルザックが娼婦の描き方に失敗したからでも、リュシアンの使い方がまずかったからというのでもなく、他の登場人物の存在を霞ませてしまうぐらいヴォートランという男が面白いということだ。
そういうわけで、藤原書店のこの版では「悪党ヴォートラン最後の変身」という副題をつけているのだろう。
とはいえ、私は訳者や出版社が勝手につけた副題にはあまり感心しないことが多いのだが・・・。

本作にはラスティニャックやニュシンゲンも再登場する。
つまり、ヴォートラン3部作の1作目である『ペール・ゴリオ』とは、ヴォートラン以外の点でも結びついているということだ。
縦横無尽に人物網を張り巡らせることによって、人間喜劇は前代未聞の幅と奥行きを獲得しているわけだが、読者がこの網にからめ取られることこそ、まさにバルザックの思うつぼなのだろう。
現に私はまんまとバルザックの術中に陥っており、バルザックの小説を読んでいて、貴族、軍人、代訴人、政治家、伊達男など、知った名前の人物が顔を出すとそれだけでうれしくなってしまう。
人間喜劇を代表するこの3部作を皮切りに、少しでも多くバルザックの作品に触れてもらえれば、旧友に再会したかのようなこの独特の喜びを感じていただけるのではないかと思う。
『娼婦の栄光と悲惨』だけではなく、バルザックが私のお勧めだ。

『従兄ポンス』 バルザック(藤原書店)

従兄ポンス―収集家の悲劇 (バルザック「人間喜劇」セレクション)従兄ポンス―収集家の悲劇 (バルザック「人間喜劇」セレクション)
(1999/09/30)
オノレ・ド・バルザック、Honor´e De Balzac 他

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書名:従兄ポンス
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:柏木 隆雄
出版社:藤原書店
ページ数:496

おすすめ度:★★★★




パリ生活情景の中で、『従妹ベット』と共に「貧しき縁者」としてくくられている『従兄ポンス』。
貧しく役に立たない親戚と思われ、疎んじられていたポンスのコレクションに意外な価値があるとわかり・・・。
親族としての絆と金銭上の利益というテーマの選び方が、いかにもバルザックらしい。
やや厚めの一冊だが、さくさく読み進めることのできる作品だ。

『従兄ポンス』は、善人と悪人の区別がはっきりしているわかりやすい構図で、筋にもそう複雑なところはない。
バルザックの悪い癖である、知識のひけらかしのような部分もないわけではないが、物語自体はとても面白い。
ただ気になるのは、誤植の多いところだろうか。
人間の仕事だけに、ごくまれに誤植が存在するのは仕方のないことだろうが、藤原書店のバルザック「人間喜劇」コレクションではそれがとても目立つ。
句読点の脱落・重複、固有名詞の間違い、漢字の変換ミスなど、その出現頻度には驚かされる。
後のゾラ・セレクションにおいてだいぶ改善されているようなので、他であまり出版されない名作を出版してくれているだけに、今後の出版物や再版に期待したいと思う。

そうはいっても、バルザックの小説の面白さは出版上の不手際を補って余りあるだろう。
登場人物に欲望を持たせることで血を通わせ、具体的な金銭をやり取りさせることで話にリアリティを付与するその手腕は『従兄ポンス』においても健在だ。
バルザックはある特定の物事に偏執する人間をよく描くが、ポンスにとっては自身のコレクションがその対象である。
命の次に、いや、ひょっとすると命よりも大事にしているコレクションに危機が迫っていることを知ったときのポンスの描写は忘れがたい。
自らの財産を奪われるという権利の侵害に対する憤りだけではなく、愛情を注ぎ込んできた対象を奪われることに傷つく哀れな老人には、読者はいかに同情してもしすぎたことにはならないのではなかろうか。

『従兄ポンス』はバルザック最晩年の作品で、ストーリーの展開に無駄がなく、全体にとても引き締まった印象を受ける。
読み終えて本を閉じてみれば、よくたった一冊の本にこれほどまで紆余曲折を組み込めたものだと思えるほどで、フランス文学を代表する巨匠の巧みを感じることのできる作品の一つだといえるだろう。
同じく「貧しき縁者」に区分されている『従妹ベット』はもちろん、『絶対の探求』や『知られざる傑作』と読み比べてみるのも非常に面白いと思う。

『従妹ベット』 バルザック(藤原書店)

従妹ベット 上 (バルザック「人間喜劇」セレクション <第11巻>)従妹ベット 上 (バルザック「人間喜劇」セレクション <第11巻>)
(2001/07/20)
バルザック

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従妹ベット 下 (バルザック「人間喜劇」セレクション <第12巻>)従妹ベット 下 (バルザック「人間喜劇」セレクション <第12巻>)
(2001/07)
バルザック、鹿島 茂 他

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書名:従妹ベット
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:山田 登世子
出版社:藤原書店
ページ数:346(上)、348(下)

おすすめ度:★★★★★




従兄ポンス』と合わせて「貧しき縁者」に分類されているバルザックの長編小説『従妹ベット』。
決して華々しいストーリーではないが、金と女をめぐる泥臭さが面白いという、いかにもバルザックらしい作品だ。

利己的な人々の群れの中にわずかに正直者がいるという構図は、『従兄ポンス』と同様だ。
しかし、「貧しき縁者」の側が親戚を食い物にしようと画策するという意味では、正反対の物語である。
そしてその手の意地汚い人々の暗躍する物語を書かせれば、バルザックの右に出る小説家はそういないのではなかろうか。

狡猾で執念深いベットの立ち回りのうまさには、全編を通じて感心させられるばかりだが、ベット以上に注目に値するのは、『従妹ベット』の主人公といっても過言ではないユロ男爵だろう。
副題の「好色一代記」は、当然彼を念頭においてのことに違いない。
彼の女関係の、ひいては人間としてのだらしなさは、人間喜劇においても比類がないほどで、バルザックはまったく見所のない人間を何人か生み出してきてはいるが、この男爵の駄目さ加減はトップクラスだと思う。
読者は彼に腹が立つというよりは、ただただその情けなさには呆れてしまうばかり・・・。
男爵夫人の貞淑さとの対比もまた鮮烈で、読者は皆、彼に救いようがない人間との烙印を押すはずだ。
そしてまさにそれゆえに、彼は非常に興味深い登場人物の一人となっている。

長編小説において、何ページにも及ぶくだくだしい脱線をするのがバルザックの癖であり、それを退屈と感じる読者が多いらしいが、この『従妹ベット』にはほとんどそれがない。
登場人物や筋の絡み合いの完成度が高く、全体が緊密に結びついていて無駄がない。
それをわざとらしさとみなすこともできるだろうが、話の面白さという観点からすれば非常に高く評価できるのではなかろうか。
『従妹ベット』は、上・下巻にもかかわらず、ふと気付いたら読み終わっているような、そんな作品だ。

『十三人組物語』 バルザック(藤原書店)

十三人組物語 バルザック「人間喜劇」セレクション十三人組物語 バルザック「人間喜劇」セレクション
(2002/03/30)
バルザック

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書名:十三人組物語
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:西川 祐子
出版社:藤原書店
ページ数:533

おすすめ度:★★★★




ランジェ公爵夫人 [DVD]ランジェ公爵夫人 [DVD]
(2009/04/03)
ジャンヌ・バリバール、ギヨーム・ドパルデュー 他

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「パリ生活情景」の冒頭を飾るのがこの『十三人組物語』。
「デヴォラン組頭領フェラギュス」、「ランジェ公爵夫人」、「金色の眼の娘」の三話から構成されている物語群で、それぞれの話に直接的なつながりはないが、いずれも十三人組が関与しているという点でつながっている。
『十三人組物語』を読むにあたり、『十五少年漂流記』を手にする際と同様の逡巡を覚えた方もいらっしゃるかもしれないが、十三人も登場人物が出てきたら途中で誰が誰やらわからなくなるではないか、という心配はいらない。
そこらへんは文豪バルザックがうまくやってくれている。

『十三人組物語』第二話の「ランジェ公爵夫人」が、数年前にフランスで映画化された。
右上がそのジャケットだが、映画自体は概ね原作に忠実に作られているようで、映画を先にしても原作を先にしても、違和感を覚えることなくどちらも楽しめることだろう。
私個人の意見としては、三篇のうちで「デヴォラン組頭領フェラギュス」が一番面白いように思うのだが、映像化するならやはり最も華のある「ランジェ公爵夫人」なのかもしれない。
ランジェ公爵夫人ランジェ公爵夫人
(2008/03/04)
オノレ・ド・バルザック

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映画化を受けてのことだろうが、三篇のうち「ランジェ公爵夫人」のみを翻訳したものが集英社から出版されていて、右がそれである。
訳者は工藤庸子先生で、確か岩波文庫で『シェリ』、『シェリの最後』など、コレットの翻訳を数点されていた方だと思う。
それらがみなすんなりと読める自然な訳文だったように記憶しているので、私は集英社版の「ランジェ公爵夫人」には目を通していないが、こちらも読みやすい訳文になっているはずだと確信している。

しかし、『十三人組物語』は三つで一つの物語群なのであるから、そのうちの一つを読むのか、三つとも読むのかによって、読後の印象は大きく異なることだろう。
映画でもそうだったが、「ランジェ公爵夫人」だけではどうしても十三人組の登場がやや唐突すぎるように感じられるし、十三人組がどのような集団であるかも非常に曖昧でしかない。
十三人組の実態に少しでも迫れるように、また、作者であるバルザックの意図を汲んで、ぜひ三篇で一つの『十三人組物語』として読んでいただきたい作品だ。

『セザール・ビロトー』 バルザック(藤原書店)

セザール・ビロトー―ある香水商の隆盛と凋落 (バルザック「人間喜劇」セレクション)セザール・ビロトー―ある香水商の隆盛と凋落 (バルザック「人間喜劇」セレクション)
(1999/07)
バルザック、Balzac 他

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書名:セザール・ビロトー
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:大矢 タカヤス
出版社:藤原書店
ページ数:449

おすすめ度:★★★★




「ある香水商の隆盛と凋落」との副題が付されている『セザール・ビロトー』。
バルザックのまさに十八番である、投機と破産の物語である。
あまり知られた作品ではないように思うが、バルザックファンにはもちろん、バルザックの初心者にもお勧めできる作品だ。

「パリ生活情景」に分類されている『セザール・ビロトー』は、パリのとある香水商が主人公だ。
叩き上げで香水商の主人とまでなったセザール・ビロトーは、いまや界隈でも特に信頼されている一廉の人物で、実直さで知られる名士である。
そんな彼にも、自身の成功に伴いちょっとした欲が出てきて、妻の反対にも聞く耳を持たず、身の程以上の出費や投資をはじめて・・・。
代訴人や銀行家など、人間喜劇でおなじみの人物も垣間見られるその後の展開は見もので、バルザックならではの巧みな筋運びで終幕へと突き進む。

『セザール・ビロトー』の気持ちのいいところは、セザールをはじめ、誠実な人間が複数登場している点だ。
正直者のセザールを正直者が取り囲み、彼らが団結して訪れた不幸に誠意を持って対処していくさまは、あたかもユゴーに代表されるロマン主義の作品を読んでいるかのようだ。
いい人すぎる登場人物はいかにも作り物くさいと感じられる読者もいることだろうが、それでもやはりいい人の話は読む人の心を和ませるものではなかろうか。
バルザックの描く人物の中で、私はヴォートランのような悪人も大好きだが、その性質こそ違えど、ビロトー一家も同じくらいに好ましい人々だと思っている。

今まで全集でしか翻訳されていなかった『セザール・ビロトー』だが、決して退屈な作品ではない。
ストーリーの面白さはもちろん、いかにもバルザックらしい小説でもあるので、バルザックに興味のある人はぜひ読んでみて欲しい。

『あら皮』 バルザック(藤原書店)

あら皮―欲望の哲学 (バルザック「人間喜劇」セレクション)あら皮―欲望の哲学 (バルザック「人間喜劇」セレクション)
(2000/03)
バルザック、Balzac 他

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書名:あら皮
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:小倉 孝誠
出版社:藤原書店
ページ数:436

おすすめ度:★★★☆☆




『あら皮』は、バルザックの代表作とされる『ペール・ゴリオ』や『従兄ポンス』とは雰囲気が大きく異なる作品だが、バルザックはストーリー展開重視の作品だけではなく、人間性を深く掘り下げた小説をも数多く残しているので、バルザックの全小説の中で見れば、『あら皮』は必ずしも異色の作品というわけではない。
そしてそれらの人間性を追究した作品は人間喜劇の中で「哲学的研究」に分類されていて、『あら皮』はその第一作目に位置づけられている。

「あら皮」とは、まさしく皮の切れ端のことである。
切れ端とは言っても、手のひらサイズというほど小さいわけではないが、持ち主の願いをかなえてくれるたびに縮んでいくという、不思議な力を持った皮だ。
絶望の底に打ち沈む青年がその皮を手に入れるところから物語は始まる・・・。
しばしばリアリストと呼ばれるバルザックだが、幻想的な雰囲気を帯びた作品もいくつか書いた。
『あら皮』はその一つであり、読み応えのある長編としては最良の作に数えられるだろう。

謎の「あら皮」と人間の欲望との交錯。
「あら皮」の存在が不思議であるだけに、物語の奥行きはぐっと増している。
巨匠バルザックは、そのような神秘を前にした人々の描写にも抜かりがない。
読書好きを自認する方なら大いに楽しむことのできる、深みのある作品に違いない。
ペール・ゴリオ』などの読者であれば、ラスティニャックに再会する楽しみもあるだろう。

この『あら皮』もこれまであまり脚光を浴びることのなかった作品だが、バルザック生誕200年を記念した藤原書店「人間喜劇」セレクションの出版によって手に取りやすい形で普及したのは非常にうれしいことだ。
私個人としてはこの手の小説も決して嫌いではないのだが、一般受けはしにくいのかもしれないと思ったので★三つ。

『ラブイユーズ』 バルザック(藤原書店)

ラブイユーズ―無頼一代記 (バルザック「人間喜劇」セレクション)ラブイユーズ―無頼一代記 (バルザック「人間喜劇」セレクション)
(2000/01)
バルザック、Balzac 他

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書名:ラブイユーズ
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:吉村 和明
出版社:藤原書店
ページ数:473

おすすめ度:★★★☆☆




人間喜劇「地方生活情景」に収められている長編小説がこの『ラブイユーズ』。
パリが舞台になっているシーンも多いが、田舎で起きる出来事に重点を置いているという点は『幻滅』などと同様だ。

「ラブイユーズ」とは一人の女のあだ名だが、必ずしも彼女を中心に話が進んでいくというわけではなく、どちらかというと本編の主人公はフィリップという破天荒な生き方をしている軍人である。
そういうわけで、本作には「無頼一代記」という副題があてがわれているのだろう。
豪胆で不道徳な荒くれ男の振る舞いを読んでいると、バルザックの時代からさらに一昔さかのぼったピカレスク小説を思い起こす読者もいるのではなかろうか。

ピカレスク風の小説を書いていても、そこに遺産相続問題を絡ませてくるあたり、やはりバルザックの作品だなと感じることができる。
親切な代訴人のアドバイスがあり、実のない女に惚れ込む男まで登場するとあっては、各ページにバルザックの署名がしてあるようなものだ。
そういう意味では、『ラブイユーズ』をバルザック風ピカレスク小説ととらえてもいいのかもしれない。

しかし、フィリップの活躍の後でも、とはいえ彼が『ラブイユーズ』の中でなしたことを活躍と呼んでよければの話だが、いずれにしても、散々活躍した主人公を読者はどうにも好きになれないまま小説が終わるように思う。
人情味の乏しいフィリップは決して人好きのするたちの男ではないし、かといって悪者としてさほどのインパクトがあるわけでもなく、強いて言えばせこい小悪党とでもいったところだろうか。
起伏に富んだストーリー自体はなかなか楽しめるのだが、バルザックの作品への期待値が高いだけに、いくらか物足りない印象を受ける作品だ。

『金融小説名篇集』 バルザック(藤原書店)

金融小説名篇集 第7巻 (バルザック「人間喜劇」セレクション)金融小説名篇集 第7巻 (バルザック「人間喜劇」セレクション)
(1999/11)
バルザック、Balzac 他

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書名:金融小説名篇集
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:吉田 典子、宮下 志朗
出版社:藤原書店
ページ数:524

おすすめ度:★★★☆☆




長編を中心に編まれた藤原書店刊行のバルザック「人間喜劇」セレクション中、唯一短編・中編を収めたものがこの『金融小説名篇集』である。
『ゴプセック』、『ニュシンゲン銀行』、『名うてのゴディサール』、『骨董室』の四編が収録されており、いずれもバルザックらしい作品なので、バルザックに興味のある方にはお勧めだ。

四篇の中で最もお勧めなのは『骨董室』だ。
四つの中で一番長く、それだけ登場人物たちにも明確な輪郭が与えられているし、二転三転するストーリーも読み応えがある。
時代性も色濃く反映されているので、人間喜劇を一社会を写した絵巻物にしようというバルザックの企図には欠かせない一編なのかもしれない。

反対に、少々退屈に思えたのは『ニュシンゲン銀行』。
ニュシンゲンやラスティニャックが行った金儲けの方法が詳しく語られるが、その経緯の説明に重心が置かれていて登場人物の描き分けがやや疎かになっているのではなかろうか。
他の作品でニュシンゲンやラスティニャックをすでに知っている読者ならともかく、独立した短編としては『ニュシンゲン銀行』はやや物足りない感がある。
ゴプセック・毬打つ猫の店 (岩波文庫)ゴプセック・毬打つ猫の店 (岩波文庫)
(2009/02/17)
バルザック

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比較的最近のことだが、『ゴプセック』は岩波文庫からも翻訳が出た。
こちらは『毬打つ猫の店』を併録している。
藤原書店の『金融小説名篇集』と比べて格段に安価なうえに、『毬打つ猫の店』の金融色が弱いので、金融の話ばかり読むのはちょっと・・・という読者には右の岩波文庫のほうがいいだろう。

とはいえ、バルザックの小説における最大級のファクターの一つは何といっても「金」であるし、『骨董室』を読むことができるのも実質的にはこの『金融小説名篇集』だけであるから、テーマの偏りがあまり気にならない方はぜひ読んでみていただきたい。

『シャベール大佐』 バルザック(東京創元社)

シャベール大佐 (創元ライブラリ―バルザック選集)シャベール大佐 (創元ライブラリ―バルザック選集)
(1995/09)
オノレ・ド バルザック

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書名:シャベール大佐
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:川口 篤、石井 晴一
出版社:東京創元社
ページ数:190

おすすめ度:★★★★




人間喜劇の中で「私生活情景」に分類されている『シャベール大佐』。
文庫が出ていることもあって比較的タイトルが知られている作品だと思うが、あまり発行部数が多くないからか、さほど読まれていないのではなかろうか。
バルザックは時に人の胸を打つ小説を書くが、『シャベール大佐』もその一つで、バルザックの残した素晴らしい小品の一つに数えていいように思う。

ナポレオン戦争で戦死したと思われていたシャベール大佐は、実は奇跡的に一命を取り留めていた。
数年を経てようやくパリにたどり着くが、容姿に過去の名残も消え失せていた大佐は、パリから、いや、社会から完全に葬り去られている。
ナポレオン派の残党として扱われるという厳しい情勢の中で、彼は失った資産と妻を取り戻そうとするのだが・・・。
毎度おなじみの代訴人であるデルヴィルが活躍するという筋書きも、人間喜劇ファンを大いに楽しませてくれることだろう。
それはそうと、このデルヴィル、人間喜劇に登場するまっとうな人物たちの中で、最も有能な男なのではなかろうか。

戦争の最中に死亡したと考えられていた夫が生還するというのは、大きな戦争の後には実際にしばしば起こるようだが、同じテーマを基に、モームは『夫が多すぎて』という戯曲を書いている。
こちらは非常に出来のいい軽妙な喜劇に仕上がっており、哀愁漂う『シャベール大佐』と比べて読んでみるのも興味深いはずだ。

『シャベール大佐』は、現在のところアマゾンでは中古品しか出回っていないらしい。
バルザックの作品にありがちな前半部分の肥大こそあるものの、全体としては非常に面白い作品だと思うので、再版や新訳の出版に期待したいところだ。

『バルザック芸術/狂気小説選集〈1〉知られざる傑作 他』 バルザック(水声社)

バルザック芸術/狂気小説選集〈1〉知られざる傑作 他―絵画と狂気篇 (バルザック芸術/狂気小説選集 1 絵画と狂気篇)バルザック芸術/狂気小説選集〈1〉知られざる傑作 他―絵画と狂気篇 (バルザック芸術/狂気小説選集 1 絵画と狂気篇)
(2010/06)
オノレ・ド バルザック

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書名:バルザック芸術/狂気小説選集〈1〉知られざる傑作 他―絵画と狂気篇
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:私市保彦,芳川泰久,澤田肇,片桐祐,奥田恭士,佐野栄一
出版社:水声社
ページ数:330

おすすめ度:★★★★




水声社から全4冊で刊行された『バルザック芸術/狂気小説選集』の第一巻。
表題にもあるように、『知られざる傑作』を含む「絵画と狂気」をテーマにした6編を収めているという体裁だが、『知られざる傑作』はともかく、中には画家が主人公というだけの話もあるし、絵画的描写とは言えても絵画とほぼ無関係な短編も収録されているから、必ずしも「絵画と狂気」という副題が適切であるようには思えない。
とはいっても、『知られざる傑作』はそれこそよく知られた傑作であるし、読み応えのある短編を集めているのでお勧めできる。
ゴプセック・毬打つ猫の店 (岩波文庫)ゴプセック・毬打つ猫の店 (岩波文庫)
(2009/02/17)
バルザック

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『バルザック芸術/狂気小説選集〈1〉』は、『知られざる傑作』の他に、『毬打つ猫の店』、『財布』、『ピエール・グラスー』、『海辺の悲劇』、『柘榴屋敷』が収められている。
人間喜劇の冒頭を飾る『毬打つ猫の店』は、ゴプセックを収めた『金融小説名篇集』でも紹介したが、右の岩波文庫版でも読むことができる。
バルザックの思い出を反映しているとされる『柘榴屋敷』は、研究者を喜ばせるかもしれないが、一般の読者が喜ぶかというと少々疑問だ。
この中で言えば、しっかりと落ちのついている『財布』が最も一般受けするように思う。
バルザックのうんちくも最小限に抑えられているし、O・ヘンリを思わせる落ちも秀逸だ。

とはいえ、最大の読みどころはやはり『知られざる傑作』だろう。
同じ芸術家小説でも、音楽家を扱った『ガンバラ』はバルザックの音楽論が長々と展開され、中にはそれに辟易する読者もいるだろうが、『知られざる傑作』の絵画論はまだしもコンパクトでわかりやすい。
まして登場人物の一人、若き青年の名前がニコラ・プーサンという名前で、しかも時代が17世紀初頭に設定されているとあっては、西洋絵画が好きな人であれば物語への興味も倍増せずにはいられない。
衝撃的な終幕も印象的で、一読すればバルザックの代表作にその名が挙がるゆえんを察していただけることと思う。
知られざる傑作―他五篇 (岩波文庫)知られざる傑作―他五篇 (岩波文庫)
(1965/01)
バルザック

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『知られざる傑作』は、水野亮先生の翻訳が岩波文庫からも出版されている。
表題作の他に5編を収めた短編集だが、これには偶然にも『柘榴屋敷』も入っている。
再版を重ね続けているので入手は比較的たやすいほうなので、訳文の古さや文字の小ささなど若干の不都合はあるかもしれないけれども、『知られざる傑作』を手軽に楽しまれたい方にはこちらの文庫版がお勧めだ。

『バルザック芸術/狂気小説選集〈2〉ガンバラ 他』 バルザック(水声社)

バルザック芸術/狂気小説選集〈2〉ガンバラ 他―音楽と狂気篇 (バルザック芸術/狂気小説選集 2 音楽と狂気篇)バルザック芸術/狂気小説選集〈2〉ガンバラ 他―音楽と狂気篇 (バルザック芸術/狂気小説選集 2 音楽と狂気篇)
(2010/08)
私市 保彦、 他

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書名:バルザック芸術/狂気小説選集〈2〉ガンバラ 他―音楽と狂気篇
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:私市保彦,加藤尚宏,博多かおる,大下祥枝
出版社:水声社
ページ数:332

おすすめ度:★★☆☆☆




バルザックの芸術家小説のうち、本書には音楽家をテーマにした作品として有名な『ガンバラ』を含む4編が収められている。
しかし、同じバルザックの芸術家小説を読むのなら、私は『バルザック芸術/狂気小説選集〈1〉知られざる傑作 他』のほうをお勧めしたいと思う。

『バルザック芸術/狂気小説選集〈2〉』には、『ガンバラ』の他に『マッシミラ・ドーニ』、『ファチーノ・カーネ』、『アデュー』が入っている。
『ファチーノ・カーネ』と『アデュー』の二編は、例によって「音楽と狂気」という副題からややそれる内容のストーリーだが、書き出しから結末に至るまで、たいへんよくまとまった出来のいい短編である。
しかし、肝心の『ガンバラ』はというと、正直言って退屈な部分が多い。
バルザックの芸術家小説を読む以上、多少の音楽論は覚悟の上だったが、専門用語を山ほど交えた楽曲に対する解説の比重が、思いのほか大きいのだ。
芸術家は自らの思うとおりに制作すればいいと、バルザックは登場人物の口を借りてどこかで言っていたが、読書を楽しもうという意図の読者の側からすると、バルザックの悪い癖が出ているとしか思えないのではあるまいか。

同じことは収録作品中最長である『マッシミラ・ドーニ』にも言えて、バルザックのイタリア人論とでもいうべき洞察力の披瀝と、またしてもオペラの解説が延々と繰り広げられていて、話が一向に展開していかない。
本に収録されている順に素直に読み進めている読者からすれば、『ガンバラ』に引き続いて「またオペラの解説か」と感じないではいられないだろう。

先ほども述べたとおり、残りの二編はなかなか面白いのだが、質・量ともにメインとなる二作がスピード感に欠ける作品となっており、あまり一般受けは期待できない。
バルザックの作品を翻訳が出ているだけすべて読みつくそうと思っている人でもない限り、手を出すべきではない本かもしれない。

『バルザック芸術/狂気小説選集〈3〉田舎のミューズ 他』 バルザック(水声社)

バルザック芸術/狂気小説選集〈3〉田舎のミューズ他―文学と狂気篇 (バルザック芸術/狂気小説選集 3 文学と狂気篇)バルザック芸術/狂気小説選集〈3〉田舎のミューズ他―文学と狂気篇 (バルザック芸術/狂気小説選集 3 文学と狂気篇)
(2010/10)
バルザック

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書名:バルザック芸術/狂気小説選集〈3〉田舎のミューズ他―文学と狂気篇
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:加藤尚宏、芳川泰久
出版社:水声社
ページ数:387

おすすめ度:★★★☆☆




『バルザック芸術/狂気小説選集〈3〉』には、表題作の『田舎のミューズ』と『ド・カディニャン公妃の秘密』の二編が収められている。
水声社の選集だけあって、例によって「文学と狂気篇」という副題からそれた作品を収録しているが、その逸脱もここに極まれりといったところだ。
芸術家も登場するが芸術家小説には程遠いし、恋する人間の心をすべて狂気ととらえるのでもない限り、狂気の出現もまったく見当たらないのだから。

『田舎のミューズ』は、バルザックのパリ観とそれに対する地方観が非常によく表れている。
中央集権の進んだフランスならではのことかもしれないが、狡猾なパリ人と素朴な田舎人との対比が非常に明確に、少々行き過ぎではないかと思えるほどにはっきりと描き分けられているのだ。
同様の描き分けは『谷間のゆり』や『ウジェニー・グランデ』にも見出すことができるし、バルザックには典型的なパターンの一つと考えることができようか。

『ド・カディニャン公妃の秘密』は、人間喜劇の読者ならモーフリニューズ公爵夫人の名で慣れ親しんだはずの、あの恋多き美貌の夫人の最後のエピソードで、読み進めるうちに『幻滅』や『骨董室』を思い出す読者もいることだろう。
しかしその裏を返せば、彼女の過去の恋愛についての予備知識があるほうがいっそう楽しめるというわけで、ある程度バルザックを読んだ人向けの作品であると言える。

収録されている作品は非常に面白い、とてもバルザックらしい作品なのだが、『芸術/狂気小説選集』という表現には誇張があるように感じられてならない。
『田舎のミューズ』と『ド・カディニャン公妃の秘密』とは、いずれも「文学と狂気」と聞いて一般の読者が期待するような内容ではないのではあるまいか。
知られざる傑作』や『ガンバラ』のような芸術家小説を予想すれば読者は裏切られる。
バルザックの作品に対してというのではなく、大袈裟な書名に対して低い評価をせざるをえないという、少々残念な本である。

『ウジェニー・グランデ 谷間のゆり』 バルザック(中央公論社)

世界の文学〈第10〉バルザック (1965年)ウジェニー・グランデ  谷間のゆり世界の文学〈第10〉バルザック (1965年)ウジェニー・グランデ 谷間のゆり
(1965)
バルザック

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書名:世界の文学〈第10〉バルザック ウジェニー・グランデ 谷間のゆり
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:田村俶、寺田透
出版社:中央公論社
ページ数:565

おすすめ度:★★★★




中央公論社の『世界の文学』シリーズ、第十巻はバルザックの小説を収めている。
そしてその収録作品はいずれもバルザックの代表作である『ウジェニー・グランデ』と『谷間のゆり』だ。
お金にまつわる泥臭さが少なく、少々の誤解を恐れずに言えば、バルザックの恋愛小説の秀作二編である。

ペール・ゴリオ』と並び、バルザックの代表作として最も有名な『谷間のゆり』。
執筆当初から美しい話を書こうと意図して書いた作品らしく、必ずしもバルザックらしい作品であるとは言えないかもしれないが、ストーリーの美しさには定評があり、まさにそれゆえにバルザックの代表作として根付いているのだろう。
とはいえ、それを退屈と感じる人がいるというのも事実ではあるのだが・・・。

この『谷間のゆり』、内容からすれば人間喜劇の中で地方生活情景に区分されているのかと思いきや、田園生活情景という区分に入っている。
近似した観念である地方生活と田園生活とは何が違うのか、他の田園生活情景の作品があまり翻訳されることがないため、人間喜劇の区分に対するバルザックの考えを読み解くうえではたいへん興味深い地位を占めている作品でもある。

一方で、『ウジェニー・グランデ』は地方生活情景に分類されている。
田舎の人々の純朴さを描いていて、同じく地方生活情景の『田舎のミューズ』に似た雰囲気を持っている。
恋愛の中にも打算が見え隠れするという、よりバルザックらしい作品であると言えるだろうか。
谷間のゆり (岩波文庫)谷間のゆり (岩波文庫)
(1994/12/16)
バルザック

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バルザックの代表作である『谷間のゆり』は岩波や新潮などの文庫でも読むことができるが、『ウジェニー・グランデ』は今日入手が難しいのが現状だ。
この中央公論社の『世界の文学』シリーズは文庫よりは一回り大きいものの、文学全集のわりには文字も読みやすく、挿絵も入っているので読みやすい。
バルザックを知るうえで最適なチョイスであるとは言えないかもしれないが、内容も充実しているので、幅広い読者に受け入れられる本だと思う。

『バルザック芸術/狂気小説選集〈4〉絶対の探求 他』 バルザック(水声社)

バルザック芸術/狂気小説選集〈4〉絶対の探求 他―科学と狂気篇 (バルザック芸術/狂気小説選集 4 科学と狂気篇)バルザック芸術/狂気小説選集〈4〉絶対の探求 他―科学と狂気篇 (バルザック芸術/狂気小説選集 4 科学と狂気篇)
(2010/12)
オレノ・ド バルザック

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書名:バルザック芸術/狂気小説選集〈4〉絶対の探求 他―科学と狂気篇
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:私市 保彦
出版社:水声社
ページ数:387

おすすめ度:★★★★




万物の根源である「絶対」を見出そうと、家族を省みることなく日夜化学の実験に没頭する男を描いたのがこの『絶対の探求』。
作家自身にそういう素質があったからかもしれないが、人間が何事かに熱狂的に執着する様を書かせれば、バルザックの右に出る者はそういないだろう。
狂気という語が適切かどうかは疑問だが、また、科学とはまるで関係のない話になるが、過去の出来事に取りつかれた一人の男を描いた『赤い宿屋』を併録していて、収録作品のバランスは非常に取れているのではなかろうか。

「絶対」を探求する主人公バルタザール、読者はどうしても錬金術師を連想せずにはいないが、バルザックがただの研究熱心なオカルト男を創作するわけもない。
財産のありったけを研究に注ぎ込み、バルタザールの夢の大きさに比例するかのようにどんどん借金が膨らみ、家族が彼のもたらした不幸に巻き込まれてしまうという、いかにもバルザックらしい展開で話が進んでいくのだ。
情熱の対象こそ違えど、バルタザールは『従妹ベット』のユロ男爵に似ているところがある。
どちらも信じられないほどに自らの情熱のためにすべてを犠牲にし、とてもじゃないが共感などできたものではないが、読者にはその家族を応援するという楽しみができる。

『赤い宿屋』は、登場人物の口を通して語られる事件と、その語りを聞いている人々から成り立っている。
いわゆる枠物語という体裁の作品だが、ただ単に過去の物語を語らせるだけの枠物語とは異なり、事件の時制と語りの時制、つまり過去と現在の絡み合いがとても巧妙に設定されている。
バルザックの短編の中では最も出来のいい作品の一つだろう。
「絶対」の探求 (岩波文庫)「絶対」の探求 (岩波文庫)
(1978/04)
バルザック

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『「絶対」の探求』は岩波文庫からも出版されている。
訳者はバルザックの翻訳を数多く世に送った水野亮先生なので、ひょっとすると少々日本語が古いと感じられる方もいるかもしれないが、訳文は信頼できるはずだ。

時系列に対して素直なことの多いバルザックだが、『絶対の探求』では構成の巧みさも窺うことができ、幾分古典的な手法をとった『赤い宿屋』との対照も悪くない。
『絶対の探求』はバルザックの宇宙観を垣間見ることもできる作品と言われているが、そんなに難しいことを考えずとも十分楽しめることだろう。
水声社の『バルザック芸術/狂気小説選集』の中では最もお勧めしたい一冊だ。

『グランド・ブルテーシュ奇譚』 バルザック(光文社古典新訳文庫)

グランド・ブルテーシュ奇譚 (光文社古典新訳文庫)グランド・ブルテーシュ奇譚 (光文社古典新訳文庫)
(2009/09/08)
オノレ・ド バルザック

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書名:グランド・ブルテーシュ奇譚
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:宮下 志朗
出版社:光文社
ページ数:256

おすすめ度:★★★☆☆




表題作である『グランド・ブルテーシュ奇譚』を含む5編を収めた本書、「バルザック短編集」と銘打ってもよかっただろう。
読者は短編でも優れた作品を残しているバルザックの、そのごく一部分を知ることができる。

『グランド・ブルテーシュ奇譚』は、嫉妬深い夫に浮気がばれたらどうなるかという逸話の一つとして、『田舎のミューズ』でその名が紹介されている。
田舎のミューズ』においては、ここに繰り返すまでもない有名な話として扱われていたので、読者はこの本でその書かれなかった挿話を読むことができるというわけだ。

『ことづて』は、ある人の愛人のもとへ伝言を頼まれるという話で、収録作品の中で最も感動的だ。
とはいえ、夫や妻以外に愛人を持つことが今よりはるかに一般的だった当時と比べると、読まれ方も変わってきているのだろうか。
『ファチーノ・カーネ』は『バルザック芸術/狂気小説選集〈2〉ガンバラ 他』にも収録されているが、盲目の老人の語る興味深いエピソードが中心となる短編で、読者を宙ぶらりんに留め置くという憎い終わり方をしてくれる。
バルザックの全作品の中でも非常に異質な構造を持つのが『マダム・フィルミアーニ』。
口さがない人々の証言を集めたような斬新なスタイルが面白いが、発表された当初はそのスタイルがどう受け取られたのだろうか。
『書籍業の現状について』はタイトルどおり、小説ではなく評論的な小品。
バルザックの小説を求める読者にとってはあまり関心が持てないだろうし、同じ紙幅を割くのであれば短編小説を入れてくれたほうがよかったように思う。

いろいろな種類の短編を集めただけに、この一冊で読者が頭の中にバルザック像を作り出そうとすれば、随分といびつなバルザックが出来上がるに違いない。
金や女に対する欲望をとことん描いたバルザックなのに、それが描かれているのはせいぜい『ファチーノ・カーネ』ぐらいのものだ。
よく言えば幅広く収録、悪く言えば雑多な寄せ集め、そんな感じを受ける一冊だ。

『セラフィタ』 バルザック(国書刊行会)

セラフィタセラフィタ
(1995/06)
オノレ・ド・バルザック

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書名:セラフィタ
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:沢崎 浩平
出版社:国書刊行会
ページ数:261

おすすめ度:★★☆☆☆




バルザックの全作品の中で、最も神秘的でいて幻想的である作品がこの『セラフィタ』である。
不思議な雰囲気を帯びた主人公であるセラフィタ、その言動に読者は釘付けになることだろう。
思想性が強いので一般受けしにくい小説ではあるが、人間喜劇の哲学的研究の最後に位置付けられている作品ということもあり、作者バルザックの自信を窺うことができる。
『セラフィタ』は「世界幻想文学大系」の中の一冊として国書刊行会から出版されたものなので、幻想文学に興味のある人にはお勧めだ。

幻想性を強める効果のある、雪と氷に閉ざされたノルウェーの極地を舞台に、北欧の神秘思想家スウェーデンボリの思想を下敷きにした物語は進んでいく。
登場人物は非常に限られていて、他の作品に再登場しない人々ばかりなので、『ペール・ゴリオ』などと違って完全に独立した作品として読むことができる。

ご覧のとおり『セラフィタ』の表紙には天使が描かれているが、これは極めて『セラフィタ』の内容にふさわしいものである。
男性とも女性ともつかないセラフィタ、ひたすらに天上を志向する見者としてのセラフィタは、まさにバルザックの描いた天使だ。
バルザックの思想のみならず、理想をも同時に推し量ることができるのが『セラフィタ』であり、人間喜劇の中での重要度も決して低くはないはずだ。

スウェーデンボリの紹介や宗教思想の占める比重が大きいので、そう長い作品ではないものの、途中で挫折してしまう読者も多いことだろう。
とはいえ、バルザックの全作品の中で『セラフィタ』が最も好きであるというようなコアなファンがいるのもまた事実のようだ。
同じ哲学的研究でも、『あら皮』や『絶対の探求』などよりもかなり哲学的であるということを承知の上で読み始めることをお勧めしたい。

『百歳の人―魔術師』 バルザック(水声社)

百歳の人―魔術師 (バルザック幻想・怪奇小説選集)百歳の人―魔術師 (バルザック幻想・怪奇小説選集)
(2007/04)
オノレ・ド バルザック

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書名:百歳の人―魔術師(バルザック幻想・怪奇小説選集)
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:私市 保彦
出版社:水声社
ページ数:393

おすすめ度:★★★★




バルザック青年期の作品である『百歳の人』。
当時流行していたゴシック風怪奇小説で、ストーリー性がきわめて強いのが特徴だ。
本邦初訳なので、当然ながらあまり知られていない作品ではあるが、「人間喜劇」の作者であるバルザックと同一人物の筆になるとは思えないほど、余計なうんちくが排されている。
多少荒削りな印象を受けなくもないが、幻想文学の中ではだいぶ読みやすい作品だと思う。

ナポレオン軍の将軍であるべランゲルトは、事あるごとに出くわす不可思議な人物である「百歳の人」を探し求めている。
そんなある日のこと、将軍は自らにそっくりな顔の老人に会いに行くという女に出会うのだが、実は将軍と老人の二人は顔がそっくりだという・・・。
読み進めていくうちに「百歳の人」の秘密と、将軍との因縁が少しずつ明かされていく。
話の続きが気になる作品なので、退屈になって放り投げてしまう心配はないだろう。

あら皮』や『セラフィタ』など、人間喜劇の中で哲学的研究に分類されている作品をいくつも読んでいると、読者はバルザックがいかに神秘的なものに惹かれていたかを察することができる。
それらの作品と『百歳の人』との比較は、興味深い論点を提供してくれることだろう。
幻想・怪奇小説というのは、不思議な現象だけを描写し、読者を宙ぶらりんのままにすることもできるのだが、『百歳の人』に関して言えば、ナポレオン軍の史実とからめて話が展開されていたり、「百歳の人」の秘密を当時の科学的見解に基づいてほのめかしてみたりと、自らの作品にリアリティを与える工夫が周到に施されている。
そういう意味では、地に足のついた幻想・怪奇小説と呼んでも間違いではないかもしれない。

この『百歳の人』は、彼が人間喜劇の中に組み入れなかった初期の作品ではあるが、私には人間喜劇の作品群と比べて必ずしも出来が悪いようには思えない。
かといってバルザックを初めて読む人にまで勧めたいとは思わないのだが、少なくとも読み物としての楽しみは味わうことができるので、バルザックファンには一読をお勧めしたい。

『アネットと罪人』 バルザック(水声社)

アネットと罪人 (バルザック幻想・怪奇小説選集)アネットと罪人 (バルザック幻想・怪奇小説選集)
(2007/04)
オノレ・ド バルザック

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書名:アネットと罪人(バルザック幻想・怪奇小説選集)
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:私市 保彦、澤田 肇、片桐 祐
出版社:水声社
ページ数:460

おすすめ度:★★☆☆☆




水声社のバルザック幻想・怪奇小説選集のうち、『百歳の人』に続く第二巻として出されたのがこの『アネットと罪人』である。
百歳の人』と同様、バルザックの若い頃の作品で、こちらも本邦初訳とのことだ。
脱線のなさや物語性の強さは魅力であるが、あいにくと『アネットと罪人』は幻想的でもなければ怪奇小説でもないため、幻想・怪奇小説選集の一冊と期待して読むと拍子抜けする可能性が高いように思う。

『アネットと罪人』は、アネットという信仰心の厚い貞淑な女性と、過去の罪を背負った「罪人」を軸にした物語である。
敬虔な乙女ながら受け身に徹することのないアネットは、退屈なヒロインではないと言ってもいいように思う。
最初はゆっくりと話が進んでいくが、加速度的に盛り上がっていく作品なので、最後まで読み通せば読み応えのある作品に触れたと感じることだろう。
作品中に無数の伏線が張り巡らされているので、おおよその結末は想像がつくように書かれているが、そのせいか引き締まった印象を与える長編作品のように思えた。

『アネットと罪人』は本書が本邦初訳とのことだが、それはつまり、裏を返せばあまり高い評価を受けていない作品ということでもある。
確かに登場人物の性格の転回が激しすぎるきらいがあるような気もする。
バルザックの代表作として知られる『ペール・ゴリオ』や『谷間のゆり』と、作品の質として何が違うのか考えてみるのも面白いだろう。

内容からすると★三つを付けてもいいくらいなのだが、幻想・怪奇小説選集に収められているという場違いな感じが拭い去れないので、一つ減らして二つにしておく。
バルザックの幻想・怪奇小説を読まれたい読者には、『百歳の人』や『セラフィタ』の方をお勧めしたい。
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