『かもめ』 チェーホフ(岩波文庫)

かもめ (岩波文庫)かもめ (岩波文庫)

書名:かもめ
著者:アントン・チェーホフ
訳者:浦 雅春
出版社:岩波書店
ページ数:192

おすすめ度:★★★★★




チェーホフの、そしてロシア文学界を代表する戯曲作品といえばこの『かもめ』ではなかろうか。
今日の日本でもしばしば舞台で上演されているほどに有名かつ息の長い作品なので、その原作に触れてみても損はないと思う。
主たるストーリーが軸となるのではなく、全体として一つの雰囲気を作り上げていく『かもめ』に対しては、読者の好き嫌いが分かれるかもしれないが、少なくとも一度試してみる価値はあるはずだ。

作家を志す青年、高名な女優であるその母、女優を目指す若き乙女、名のある作家、田舎教師に田舎医者などといった登場人物が、いくつかの鮮やかな恋模様を花開かせ、それぞれの人生観のぶつかり合いがまばゆい火花を散らす。
それらが原型を留めたままで混ざり合い、美しいマーブル模様を描き出す。
それこそがやはり『かもめ』の本質であり、読者が鑑賞すべき最大の醍醐味なのではなかろうか。

今日の読者であれば、それほど『かもめ』の斬新さを感じることができないかもしれない。
これといった筋書きがなく、明確な主人公を持たずに複数の登場人物から成る群像を描いたような映画などを、誰しも一度は見たことがあるのではないかと思うからだ。
もちろんそのようなスタイルの作品がもっぱらチェーホフと『かもめ』の存在に由来するものだと言いたいわけではないが、チェーホフ風のストーリー展開が一つの潮流になっていて、その源の一つがこの『かもめ』であると言っても言い過ぎではないはずだ。

『かもめ』に限った話ではないが、チェーホフの作品を読むに当たっては、読者は知性の働きよりも、感性の鋭さを解き放つべきだろう。
そうすることで、チェーホフが作り上げた微妙な味わいをより深く感じ取り、チェーホフ作品の虜となるに違いない。
『かもめ』を足掛かりに、ぜひチェーホフの他の戯曲や小説を読み進めていただければと思う。
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『ワーニャおじさん』 チェーホフ(岩波文庫)

ワーニャおじさん (岩波文庫)ワーニャおじさん (岩波文庫)

書名:ワーニャおじさん
著者:アントン・チェーホフ
訳者:小野 理子
出版社:岩波書店
ページ数:148

おすすめ度:★★★★★




かもめ』と並び、チェーホフの四大戯曲の一つに数えられているのがこの『ワーニャおじさん』である。
劇の舞台が田舎であることや、劇全体を支配している雰囲気など、基調となる部分は『かもめ』と非常に似ており、複数の人物が主役級の存在感を放っているという点も同様で、非常にチェーホフらしい作品と言えるのではなかろうか。

自らの青春を、義兄である大学教授を支えるために空費したと感じ、いまや何一つ将来に希望を持つことができないワーニャおじさん。
その上、大学を退職した教授が、美しい後妻を連れてワーニャの暮らす領地に帰ってきたものだから、人間関係が妙にぎくしゃくすることになってしまい・・・。
チェーホフの戯曲作品すべてに対して言えることであるが、舞台に登場人物が二人だけになり、彼らが対話を交わしているところが、最も興味深い場面を成していると思われる。
そしてこの『ワーニャおじさん』においても、いろいろな組み合わせによる二人だけのシーンがあり、それぞれがとても重要な意味を持っているようだ。

個人的には、大学教授がワーニャの妹である先妻との間に設けたこどもであるソーニャの、不器用で引っ込み思案でありつつも健気な姿が、自己主張の強い他の登場人物たちとは別種の輝きを放っていると思う。
そもそも、本書のタイトルである「ワーニャおじさん」という呼称にしても、ワーニャの姪に当たるソーニャの視点から呼ばれたものであるし、ワーニャとソーニャの関係性に重点を置いて読んでみるのも面白いのではなかろうか。

それほど起伏に富んだ筋書きではないのだが読み応えだけは抜群という、いかにもチェーホフらしい作品が本書『ワーニャおじさん』である。
チェーホフの戯曲に興味のある方であればぜひ読んでみるべき本であることは間違いない。

『可愛い女・犬を連れた奥さん』 チェーホフ(岩波文庫)

可愛い女(ひと)・犬を連れた奥さん 他一編 (岩波文庫)可愛い女(ひと)・犬を連れた奥さん 他一編 (岩波文庫)

書名:可愛い女・犬を連れた奥さん 他一篇
著者:アントン・チェーホフ
訳者:神西 清
出版社:岩波書店
ページ数:144

おすすめ度:★★★★★




短編の名手としても名高いチェーホフの代表的短編作品を三編収めているのが本書『可愛い女・犬を連れた奥さん 他一篇』である。
ポーやモーパッサンの作品と違い、事件性が乏しい短編という、文学史に一つの流れを作り出したチェーホフの短編作品は、欧米文学に興味のある方であれば一度は読んでみるべきだろう。

『犬を連れた奥さん』は、保養地に現れた美しい婦人と、その婦人に目を付けた伊達男との関係性に焦点を当てた、いわゆる恋愛小説と言えようか。
確固たる自己というものを持たず、一人ではどうすることもできない女を描いた『可愛い女』も、最後の一ページまで一気に読ませてしまう魅力を持っている。
本書に収録されているもう一つの作品である『イオーヌィチ』、これは田舎医者を主人公に据えた作品であり、自らも医師であったチェーホフは医者をよく描く作家であるが、これもその一例とみなすことができるだろう。
かわいい女・犬を連れた奥さん (新潮文庫)かわいい女・犬を連れた奥さん (新潮文庫)

チェーホフの短編集は数多く出されてきているが、『かわいい女・犬を連れた奥さん』というタイトルの短編集は、新潮文庫からも出版されている。
チェーホフの短編小説を読むのに、個人的な趣味の問題もあって、私はすでに何冊も短編集が出されている岩波文庫を選んだが、『可愛い女・犬を連れた奥さん』に関して言えば、新潮文庫版のほうがその他の収録作品の数が多くてお得なので、こちらで読むのも悪くないかもしれない。

『犬を連れた奥さん』と『可愛い女』は、小説が完結していないという印象すら受けかねない作品なのだが、これらの作品から読者が受ける読後の印象こそが、チェーホフが短編小説で演出し続けた独特の余韻なのではなかろうか。
息詰まるような閉塞感や、何の希望もないような空虚さを覚える人々の悲哀を淡々と描いているようでいて、どこか心に優しく訴えかけるものも備えているというチェーホフならではの作風を、心行くまで味わっていただければと思う。

『桜の園』 チェーホフ(岩波文庫)

桜の園 (岩波文庫)桜の園 (岩波文庫)

書名:桜の園
著者:アントン・チェーホフ
訳者:小野 理子
出版社:岩波書店
ページ数:173

おすすめ度:★★★★




44歳で生涯を終えたチェーホフの、最晩年に書かれた最後の戯曲作品がこの『桜の園』である。
四幕の喜劇と題されてはいるものの、没落していく名家を描いていることからもわかるように、一般的な意味合いでの喜劇的作品ではないように思われる。

金銭感覚に疎い女主人ラネーフスカヤの浪費がたたり、美しい桜の園を含む土地家屋が競売に出されることになってしまった。
旧弊な考えを抱いている女主人の兄、実際的な感覚に富んだ養女、新思想を持ち込む学生、生きた化石のような老僕などといった幅広い視点の絡み合いが、『桜の園』においても秀逸な人間模様を描き出している。
劇全体を通じて、何種類かの悲哀が語られるが、自業自得とでも言うべき個人的なものが多く、あまり読者の同情を喚起することはないのではないかと思うが、それは私たちが20世紀的なより合理的な感情を持つ人間であるからかもしれない。
とはいえ、登場人物たちの個人的な悲哀が、当時のロシアの社会的な状況の変化とも結びついていることは注目に値するだろう。

検閲で削除された箇所が数点あるということからもわかるように、チェーホフの社会批判が見られるというのが『桜の園』の特徴の一つになっている。
とはいえ、削除された箇所においてそれほど過激な思想が述べられているわけではなく、単に当時のロシア帝国の検閲がきわめて非寛容だっただけのような気もするのだが。

劇中で、いろいろな象徴としての意味を持つ「桜の園」ではあるが、この作品が実際に舞台にかけられるときには、桜の園をどういうふうに扱うかが演出家の腕の見せどころの一つとなるはずだ。
登場人物がたびたび桜の園の美しさに言及するのもあって、『桜の園』は本で読むだけではなく、舞台で上演されているのも見てみたくなる、そんな作品だと言えるだろう。

『桜の園・三人姉妹』 チェーホフ(新潮文庫)

桜の園・三人姉妹 (新潮文庫)桜の園・三人姉妹 (新潮文庫)

書名:桜の園・三人姉妹
著者:アントン・チェーホフ
訳者:神西 清
出版社:新潮社
ページ数:284

おすすめ度:★★★★★




チェーホフの四大戯曲の中で、三番目の作品となる『三人姉妹』と、四番目の作品となる『桜の園』が本書には収められている。
桜の園』はすでに別の記事で紹介済みなので、今回は勝手ながら『三人姉妹』だけを紹介することにしたい。

両親を亡くしたオーリガ、マーシャ、イリーナの三人姉妹は、兄弟であるアンドレイと物質的には不自由なく暮らしているのだが、それぞれがそれぞれの憂鬱を抱えている。
夢や理想が高すぎるからなのか、夫選びが軽率だったからなのか、あるいは周囲の人間に悩まされているだけなのか・・・。
彼女たちの将来には、確かに彼女たちが望むような幸福の到来は期待できそうもなく、全体的にはやや暗い雰囲気に支配された作品であると言える。
しかし、単に不遇な現在を嘆くだけの陰鬱な作品に堕してしまわないところが、チェーホフのうまさと言うべきだろう。

チェーホフの戯曲に見られる明確な主人公の不在という特徴が『三人姉妹』においては影を潜めていて、そのタイトルのとおり三人の姉妹を中心に据えた作品となっている。
そしてその三人が並列の立場に置かれているということが、この作品世界に独特の幅の広さを持たせているようだ。

例によってチェーホフ流の哀愁を帯びた『三人姉妹』ではあるが、筋書きにおける構成の巧みさという観点からすると、チェーホフ作品の中で最高傑作なのではないかと思われる。
次から次へと数多くのエピソードが詰め込まれてはいるものの、それらが過不足なく描かれ、互いに無理なく調和しているのである。
読みやすい作品だからといってさらりと読み流すよりは、一人一人の心情を深読みしながらの精読をお勧めしたい、そんな作品だ。

『桜の園/プロポーズ/熊』 チェーホフ(光文社古典新訳文庫)

桜の園/プロポーズ/熊 (光文社古典新訳文庫)桜の園/プロポーズ/熊 (光文社古典新訳文庫)

書名:桜の園/プロポーズ/熊
著者:アントン・チェーホフ
訳者:浦 雅春
出版社:光文社
ページ数:264

おすすめ度:★★★★




チェーホフ最後の戯曲作品である『桜の園』と、一幕ものの笑劇二編を収めたのが本書『桜の園/プロポーズ/熊』である。
桜の園』はすでに別の記事で紹介済みなので、さほど注目されることのない作品ではあるものの、『プロポーズ』と『熊』に焦点を絞ってみることにしたい。

近所の地主が娘をもらいに来るという、平和的筋書きで始まる『プロポーズ』ではあるが、話せば話すほどに係争地を巡る意見の食い違いが明確になるだけで、結果的には大喧嘩になってしまう。
果たして二人は結婚というハッピーエンドにまでこぎつけられるのか・・・。
『熊』のほうは、熊のように粗野な男が、ある未亡人のもとへと、亡き夫がこしらえた借金の取り立てにやってくるというところから始まる。
ところが、借金を払おうにも手持ちのお金がないから未亡人は少し待ってくれと頼むのに、「熊」は今すぐ金がいると言ってそれを聞き入れようとしないものだから・・・。

『プロポーズ』も『熊』も、スピード感のある掛け合いが中心となっている作品であり、ページ数の少なさも手伝ってすぐに読み終わってしまうことだろう。
当然ながら登場人物もそれぞれ三人だけと限られているので、わかりやすいことこの上ない作品に仕上がっている。

人物造形に深みが足りなく、ストーリー中でも滑稽さが前面に押し出されている『プロポーズ』や『熊』のような笑劇は、あまり高い評価を受けないのが普通である。
それでいて、『プロポーズ』と『熊』を読んだ読者は、チェーホフの他の笑劇も読んでみたいと強く感じずにはいられないことだろう。
強い感銘を受けることはありえないかもしれないが、読書を楽しみたいという根本的欲求は必ず満たしてくれるものと思う。

『カシタンカ・ねむい』 チェーホフ(岩波文庫)

カシタンカ・ねむい 他七篇 (岩波文庫)カシタンカ・ねむい 他七篇 (岩波文庫)

書名:カシタンカ・ねむい
著者:アントン・チェーホフ
訳者:神西 清
出版社:岩波書店
ページ数:313

おすすめ度:★★★★




チェーホフの短編小説9編を収めたのが本書『カシタンカ・ねむい』である。
チェーホフの代表的な短編作品を3編選べと言われれば、本書の収録作品はそこに入らないかもしれないが、仮に30編選べと言われれば、そのほとんどが選ばれるのではないかというような、準代表作とでも呼ぶべき作品が収められている。

本書は表題作である『カシタンカ』と『ねむい』の他に、『嫁入り支度』、『かき』、『小波瀾』、『富籤』、『少年たち』、『大ヴォローヂャと小ヴォローヂャ』、『アリアドナ』を収録している。
社会的な弱者であったり、日々の生活に退屈しきった田舎の有閑階級を描いていたりする点は、いかにもチェーホフらしい視点と言えるだろう。
個人的にお勧めしたい作品は『ねむい』で、話の結末の付け方は多少チェーホフらしからぬ気がしないでもないが、それだけインパクトのある作品になっていると思う。

本書の翻訳は、チェーホフの翻訳を語る上で欠かすことのできない存在である名訳者の神西氏によるものだが、本書には神西氏のチェーホフ論である『チェーホフの短篇に就いて』と『チェーホフ序説』も併録されている。
そのチェーホフ論に100ページくらい割かれているため、中にはチェーホフの作品の翻訳をその分増やしてくれればよかったのにと思う読者もおられるかもしれないが、いかに執筆された時期が過去のことであるとはいえ、神西氏のチェーホフ論がチェーホフの短編世界に関する解説としてきわめて優れたものであることは間違いないだろう。

本書『カシタンカ・ねむい』の収録作品は、それぞれの作品の長さも手頃で読みやすく、内容的にもとっつきやすいものばかりである。
チェーホフを知らない読者が、本書をチェーホフの短編作品を読み始める足掛かりにするのもいいのではないかと思う。

『郊外の一日 - 新チェーホフ・ユモレスカ1』 チェーホフ(中公文庫)

郊外の一日 - 新チェーホフ・ユモレスカ1 (中公文庫)郊外の一日 - 新チェーホフ・ユモレスカ1 (中公文庫)

書名:郊外の一日 - 新チェーホフ・ユモレスカ1
著者:アントン・チェーホフ
訳者:松下 裕
出版社:中央公論新社
ページ数:364

おすすめ度:★★★★




数あるチェーホフの短編集のうち、初期の作品を集めた短編集の一つがこの『郊外の一日』である。
「新チェーホフ・ユモレスカ1」という副題が示すように、ユーモアを特徴とする作品群から、本書は31編を訳出している。
そもそも読みやすい文体で作品を仕上げるチェーホフにおいて、さらに読みやすいジャンルがあるとすればこのユモレスカだと思うので、気軽に手にしていただければと思う。

ユモレスカにおいてチェーホフが用いるユーモアには、結婚生活を揶揄するものや、帝政ロシア時代の貧困や身分格差をやり玉に挙げたものもあれば、いわゆる「新思想」をからかうようなものなど、当然ながらいろいろあるが、いくつかの作品も読んでいるうちにある程度の傾向性は見えてくるように思う。
それでも読者は飽きるどころかついつい次の作品を読みたくなってしまうのだから、チェーホフの読者を引き付ける筆力には脱帽せざるを得ない。
チェーホフの繰り出す適度なブラックユーモアに心地よさを覚える読者は私だけではないだずだ。

チェーホフの後期の作品群を知っている我々からすると、いわばオチのついた面白い話が見られるというのがユモレスカの最大の特徴と感じられるかもしれない。
そうはいっても、『郊外の一日』に収録されている作品すべてに必ずしもユーモアを感じるかというと実はそうでもなく、哀愁に満ちた余韻を残すものも半分くらいはあるのだが、それはそれで、いかにもチェーホフらしい作風だと読者をほくそ笑ませるに違いない。

チェーホフ・ユモレスカは、一作品につき平均して10ページ程度と、とても手頃なボリュームの読み物の集まりになっている。
電車に乗っている時間や、ちょっとした待ち時間にも読み切れる作品なので、出かけるときには一冊鞄に忍ばせておいてはいかがだろうか。

『結婚披露宴 - 新チェーホフ・ユモレスカ2』 チェーホフ(中公文庫)

結婚披露宴 - 新チェーホフ・ユモレスカ2 (中公文庫)結婚披露宴 - 新チェーホフ・ユモレスカ2 (中公文庫)

書名:結婚披露宴 - 新チェーホフ・ユモレスカ2
著者:アントン・チェーホフ
訳者:松下 裕
出版社:中央公論新社
ページ数:315

おすすめ度:★★★★




郊外の一日』に引き続き、「新チェーホフ・ユモレスカ2」として中公文庫から出された短編集が本書『結婚披露宴』である。
ユーモアあり、哀愁ありのチェーホフらしい作品28編から成っており、世代を問わず楽しめる本になっていると思う。

本書『結婚披露宴』には、卑屈さ、横柄さのはびこる官僚社会に対して痛烈な皮肉を浴びせている作品が多いような気がする。
とはいえ、それは何も本書の収録作品に限った特徴ではなく、チェーホフの短編作品世界に見られる一般的特徴であるとも言えるのではあるが、少なくとも本書は、その特徴を強く打ち出した一冊になっているように思われる。

チェーホフは『結婚披露宴』という一幕物の喜劇作品も書いているが、本書に収められているのはそれとは別の、ユモレスカの一つである『結婚披露宴』であるという点には注意していただきたいと思う。
本書『結婚披露宴』にも、実は同じ原題を持つ二つの作品が別の邦題を冠して収められているという事実からもわかるように、チェーホフは作品のタイトルの重複をそれほど気にしていなかったようで、読者からすれば紛らわしい限りである。
一幕喜劇のほうの『結婚披露宴』を読みたい方は、河出文庫の『馬のような名字』に収録されているので、そちらで読まれるといいだろう。

数百の作品を数えるチェーホフ・ユモレスカは、読者の好評に後押しされたからなのか、他にも翻訳が出されているのでそれらを読み進めることをお勧めしたい。
実際、『郊外の一日』、『結婚披露宴』だけでは飽き足らず、もっと他の作品を読みたくなってくる読者ばかりなのではなかろうか。

『馬のような名字 チェーホフ傑作選』 チェーホフ(河出文庫)

馬のような名字 チェーホフ傑作選 (河出文庫)馬のような名字 チェーホフ傑作選 (河出文庫)

書名:馬のような名字 チェーホフ傑作選
著者:アントン・チェーホフ
訳者:浦 雅春
出版社:河出書房新社
ページ数:341

おすすめ度:★★★★★




河出文庫から出された、「チェーホフ傑作選」と銘打ったチェーホフの短編集がこの『馬のような名字』である。
収録作品の制作年代も幅広く、質的なレベルも全般に高いので、「傑作選」の名に恥じない内容になっているように思う。

本書には『悪ふざけ』、『ロスチャイルドのバイオリン』、『箱に入った男』、『かわいいひと』といった比較的有名な短編作品16編に加えて、一幕物の喜劇である『結婚披露宴』と『創立記念日』も収録されている。
名前を思い出せそうで思い出せない『馬のような名字』、一度のくしゃみが思いがけない災難を呼ぶ『小役人の死』、不遇な少年が祖父に向けて切ない手紙をしたためる『ワーニカ』、19世紀ロシアのマリッジブルーを扱う『いいなずけ』などからは、チェーホフ文学の二大キーワードであるユーモアと哀愁を存分に味わうことができるだろう。
新訳 チェーホフ短篇集新訳 チェーホフ短篇集

最近出されたチェーホフの短編集には、右に挙げる集英社の『チェーホフ短編集』もある。
収録作品は『馬のような名字』と半分以上重複しているものの、こちらは各作品に解説が付されていて、それが作品理解を深める助けとなるというのが特徴である。
ただ、訳者がいちいち申し開きをしなければならないような冒険的な訳語選びに読者が付き合わされるという点に関しては、個人的にあまりいただけないと感じてはいるのだが。

本書『馬のような名字』の収録作品に何か傾向性のようなものが見受けられるとすれば、それはチェーホフのユーモアセンスの窺える作品が多いということだろうか。
また、それぞれの作品が短いものばかりなので、それだけ多くの作品に触れることができるというのも本書の長所と言える。
チェーホフらしさに事欠かない傑作の数々を、心行くまで楽しんでいただければと思う。

『チェーホフ短篇集』 チェーホフ(ちくま文庫)

チェーホフ短篇集 (ちくま文庫)チェーホフ短篇集 (ちくま文庫)

書名:チェーホフ短篇集
著者:アントン・チェーホフ
訳者:松下 裕
出版社:筑摩書房
ページ数:393

おすすめ度:★★★★★




チェーホフの短編集はいろいろと出されているが、ちくま文庫からも『チェーホフ短篇集』が出版されている。
本書には、チェーホフの代表作を収めた岩波文庫『可愛い女・犬を連れた奥さん 他一篇』に収録されている3編の作品がすべて入っていることからも推測できるように、収録作品は読者の期待を裏切らない充実のラインナップであると断言できるだろう。

上記の3作品の他、本書には『芝居がはねて』、『少年たち』、『金のかかるレッスン』、『くちづけ』、『国語の教師』、『アリアードナ』、『頸にかけたアンナ』、『中二階のある家』、『知人のところで』の計12編が収録されている。
個人的には、行軍中の士官が将軍の家に招かれた時の出来事を綴る『くちづけ』と、進歩的な思想を持ち我の強い姉と、それとは対照的にたおやかな妹の住まう家を舞台とする『中二階のある家』が特に気に入っているが、事実、この2作品はチェーホフの短編作品の中でもけっこう評価が高いほうらしい。
とはいえ、それ以外の作品も再読に値する出来栄えのものであることは間違いないので、それぞれお気に入りの作品を見つけてもらえればと思う。

本書の収録作品は、広い意味でとらえた「恋愛感情」をテーマにした作品を選んだとされているが、それが非常に広い意味でのテーマ設定であるため、読者がどの作品も似たり寄ったりであると感じることは少ないのではなかろうか。
何作品かを立て続けに読んでも、各々の作品から異なった印象を受けることがその証であると言えるはずだ。

幸か不幸か、チェーホフの短編集は複数の出版社が出しているので、選ぶのがけっこう難しい。
その点、チェーホフ翻訳の第一人者である松下氏による本書は、チェーホフの短編集としてはきわめて無難な選択であると言える。
新品の入手は少し難しいかもしれないが、どの短編集からチェーホフを読み始めるべきか迷ったら、本書から始めてみるのもいいと思う。

『六号病棟・退屈な話』 チェーホフ(岩波文庫)

六号病棟・退屈な話(他5篇) (岩波文庫)六号病棟・退屈な話(他5篇) (岩波文庫)

書名:六号病棟・退屈な話 他五篇
著者:アントン・チェーホフ
訳者:松下 裕
出版社:岩波書店
ページ数:391

おすすめ度:★★★★★




「医者・医学」をテーマに編まれたチェーホフの作品集が本書『六号病棟・退屈な話 他五篇』だ。
『敵』や『黒衣の僧』といった併録されている作品もなかなか面白いが、なんといってもいずれもチェーホフの代表作に数えられている表題作の二作は桁違いによくできている。
この二作は100ページを超える中編作品なので、他の短編作品と単純に比較すべきでもないのかもしれないが、その完成度の高さは誰もが感じ取ることができるのではなかろうか。

チェーホフ最晩年の短編作品の一つである『六号病棟』では、田舎町にある精神病患者を隔離する病棟と、教養人としての自負を抱いた院長先生を描いている。
俗物ばかりの田舎町で見つけた、知的好奇心を満たしてくれる話し相手が、なんと精神病患者だったものだから・・・。
ゴーゴリの『狂人日記』を想起させがちな作品ではあるが、随所にチェーホフの私見を窺える『六号病棟』は、思想性豊かなオリジナリティに富んだ作品であると言えると思う。
全体に明るい雰囲気に支配されているのも、いかにもチェーホフらしいと言えるだろうか。

世界的に高名な老教授の晩年を描く『退屈な話』も、なかなかどうして「退屈な話」どころではない。
社会的には偉大な成功者であるはずの教授ではあるが、自らの余命がそう長くないことを悟っている今、家族との心的距離はかけ離れている上に、周囲のことにそもそも関心が持てなくなっているし、満たされない気持ちでいっぱいである。
主人公をチェーホフに置き換えて考えることは誤りであろうが、こちらもチェーホフの心の声を垣間見ることができる作品になっていて興味深い。

『六号病棟』も『退屈な話』も、チェーホフを知る上で欠かすことのできない重要な作品であることは間違いない。
短編作品では味わえない奥深さを、これらの代表的中編作品で堪能していただければと思う。

『子どもたち・曠野』 チェーホフ(岩波文庫)

子どもたち・曠野 他十篇 (岩波文庫)子どもたち・曠野 他十篇 (岩波文庫)

書名:子どもたち・曠野 他十篇
著者:アントン・チェーホフ
訳者:松下 裕
出版社:岩波書店
ページ数:394

おすすめ度:★★★★




表題作の他、『いたずら』、『聖夜』、『ワーニカ』、『実は彼女だった!』、『ヴェーロチカ』、『家庭で』、『幸福』、『賭け』、『ロスチャイルドのヴァイオリン』、『学生』といったチェーホフ初期の頃の作品を集めたのが本書『子どもたち・曠野 他十篇』である。
子どもから年寄りまで、また、貧しい農民から富豪まで描くというチェーホフの特徴が、この一冊からだけでも十分に窺い知れるという収録作品の選択になっている。

本書の中で、『いたずら』、『ワーニカ』、『ロスチャイルドのヴァイオリン』は、他の短編集にも収められることの多い、比較的よく知られた短編作品である。
個人的には、無邪気な子どもたちの暮らしの中の一コマを抜き取ったかのような『子どもたち』、初々しい恋愛感情を描き出す『ヴェーロチカ』、銀行家が行った深刻極まりない15年越しの賭けの結末を語る『賭け』なども、それらに劣らない作品であるように感じている。

本書の中心的な作品と言えば、やはり200ページにも及ぶ中編作品である『曠野』であろう。
親元を離れて学校に通うことになっている少年が、学校のある町に向かって、幌馬車に揺られながら伯父や貧しい農民たちと曠野を旅することになった。
心細くてたまらない間にも、新鮮な印象が次から次へと飛び込んできて・・・。
子どもを描く際のチェーホフの優しさに触れれば、読者もまた優しい気持ちになれることだろう。
その反面、チェーホフならではの淡々とした書きぶりをいささか退屈に感じる読者もいるかもしれず、必ずしも万人受けはしない作品なのかもしれない。

チェーホフの作家人生において、『曠野』は一つのマイルストーンとなる作品としても有名なので、チェーホフに強い関心を抱く読者であればぜひ読んでおくべき作品であると言える。
他の短編集と重複している作品もそれほど多くはないので、チェーホフの代表作を一通り読み終えた読者が次に読む一冊として、本書『子どもたち・曠野 他十篇』をお勧めしたいと思う。

『ともしび・谷間』 チェーホフ(岩波文庫)

ともしび・谷間 他7篇 (岩波文庫)ともしび・谷間 他7篇 (岩波文庫)

書名:ともしび・谷間 他七篇
著者:アントン・チェーホフ
訳者:松下 裕
出版社:岩波書店
ページ数:392

おすすめ度:★★★★




表題作の他、『美女』、『気まぐれ女』、『箱に入った男』、『すぐり』、『恋について』、『僧正』、『いいなずけ』を収録した短編集が本書『ともしび・谷間 他七篇』である。
『曠野』以降の作品、いわばチェーホフ円熟期から晩年に至るまでの作品を収めており、収録作品の執筆時期だけに関して言えば、同じ岩波文庫から出ている初期の作品を収めた『子どもたち・曠野』と対になる一冊と言うことができるだろう。

規範から抜け出せない人物を描く『箱に入った男』、すぐりのある屋敷に憧れてやまない『すぐり』、偶然再会した幼なじみの人妻との恋愛を語る『恋について』の三作品は、チェーホフにしては珍しく、同じ人物が登場するシリーズものとなっている。
とはいえ、登場人物はあくまで物語の枠組みを提供するだけで、作中で物語られるエピソードがメインなので、単独で読んでもそれぞれ短編作品としては成立している。
また、深読みをせずに読み流しても十分面白い『ともしび』は、ペシミズムの脱却という、チェーホフ自身にとっても無縁ではなかったテーマが取り扱われている点が注目に値するだろうか。

谷間の村の富裕な商人一家の運命を描いた『谷間』もまた優れた作品である。
商売はうまくいっているし、長男にも嫁をもらうことが決まり、まるで順風満帆そうな一家ではあったが・・・。
『谷間』は発表当時から非常に好評だったようで、事実、コンパクトな作品ながら個々の人物を巧みに描き分けた情緒豊かな作風は、いかにもチェーホフらしく素晴らしい短編であると感じられる。

チェーホフの主要な中・短編小説は、『可愛い女・犬を連れた奥さん』、『カシタンカ・ねむい』、『六号病棟・退屈な話』、『子どもたち・曠野』、そして本書『ともしび・谷間』によって、岩波文庫ですべて押さえることができる。
チェーホフの描く小説世界に魅了された方は、五冊とも読み通して、いよいよチェーホフの虜となっていただければと思う。

『チェーホフ・ユモレスカ 傑作短編集』 チェーホフ(新潮文庫)

チェーホフ・ユモレスカ―傑作短編集〈1〉 (新潮文庫)チェーホフ・ユモレスカ―傑作短編集〈1〉 (新潮文庫)チェーホフ・ユモレスカ―傑作短編集〈2〉 (新潮文庫)チェーホフ・ユモレスカ―傑作短編集〈2〉 (新潮文庫)

書名:チェーホフ・ユモレスカ―傑作短編集
著者:アントン・チェーホフ
訳者:松下 裕
出版社:新潮社
ページ数:389(一)、384(二)

おすすめ度:★★★★




チェーホフ初期のユモレスカと呼ばれる小品の中から、優れた作品を集めたのがこの『チェーホフ・ユモレスカ 傑作短編集』だ。
短編集Ⅰには65編収録、短編集Ⅱには49編収録という具合に、収録作品の数は非常に豊富である。
当然ながら、内容は容易なものばかりなので、電車の中など、ちょっとした時間のできたときの読み物としても向いているように思う。

チェーホフ・ユモレスカが取り扱う主題はきわめて広範に及んでいる。
『チェーホフ・ユモレスカ』の収録作品の傾向性を述べるとすれば、結婚生活をテーマにするもの、官僚社会を諷したもの、劇場を舞台にするもの、そして医者の出てくるものなどが比較的多く、本格的な作家として始動する以前のユモレスカにおいても、作家としてのチェーホフの特徴がよく表れている、とは言えそうである。
チェーホフ・ユモレスカチェーホフ・ユモレスカチェーホフ・ユモレスカ〈2〉チェーホフ・ユモレスカ〈2〉チェーホフ・ユモレスカ〈3〉チェーホフ・ユモレスカ〈3〉

新潮文庫入りを果たす前に、『チェーホフ・ユモレスカ』は同じく新潮社から単行本が全三冊で刊行されていた。
第一巻と第二巻は、文庫版の傑作短編集とほぼ同じ内容で、収録作品の相違はせいぜい1、2編に過ぎないので、どちらか一方で読めばそれで十分だろう。
第三巻は、中公文庫の『郊外の一日』と収録作品が同じであるため、単行本で出された『チェーホフ・ユモレスカ』は実質的にはすべて文庫化されていると言える。

チェーホフのユモレスカは、あくまで文学的な価値を高めていった後期チェーホフありきの、習作的な位置付けに過ぎない若書きの作品群であると言われれば、それは否定できないだろう。
しかしながら、わずか5ページの小品においても若きチェーホフの才能は発揮されており、最小限の文言で最大限の情景が描き出されていて、読者を楽しませてくれる。
文学史に名を残す作品ではないかもしれないが、読んで面白い「習作」であれば、それはそれで読む価値があると言えるのではなかろうか。

『決闘・妻』 チェーホフ(岩波文庫)

決闘・妻 (岩波文庫)決闘・妻 (岩波文庫)

書名:決闘・妻
著者:アントン・チェーホフ
訳者:神西 清
出版社:岩波書店
ページ数:296

おすすめ度:★★★★




チェーホフの『決闘・妻』は、他の岩波文庫とは違って短編集ではなく、本書には表題作である二つの中編小説が収録されている。
いずれの作品にも結婚問題と「余計者」問題という、チェーホフと切り離すことのできないテーマが描かれており、チェーホフらしさは存分に発揮されていると言えるだろう。

200ページの紙幅が割かれている『決闘』には、駆け落ちを後悔していて倦怠から逃れられないでいる青年、そんな青年を軽蔑してやまない実際家の学者、鷹揚でお人好しの医者、退屈さからコケットリーに陥るヒロインなど、舞台を彩る役者は揃っている。
オネーギン』、『現代の英雄』以来、いわばロシア文学における正統イベントでありながら、当時すでに時代遅れだったはずの決闘をチェーホフがどう扱うのかが、なかなか興味深いところである。
また、結婚生活を揶揄することの多かったチェーホフが、崩壊寸前の夫婦関係を描いた『妻』も、別の意味で注目に値するだろう。
チェーホフ全集〈6〉 (ちくま文庫)チェーホフ全集〈6〉 (ちくま文庫)

岩波文庫の『決闘・妻』は、名訳者として名高い神西氏の翻訳ではあるが、初版が戦前であるため、仮名遣いが古いというのがデメリットである。
私自身は読んだことがないのだが、旧仮名遣いに抵抗のある方は、『決闘』はちくま文庫の全集で読んでみるのもいいかもしれない。
全集とはいえ手頃な価格で手に入るし、訳者も松下氏であれば間違いないだろう。

チェーホフの小説作品の中で最長と言われる『決闘』は、並々ならぬ意気込みをもって書き進められ、様々な逡巡と書き改めの末に生み出された作品らしい。
作家が苦心した作品が必ず面白いものであるとは限らないが、『決闘』の場合は読者に伝わりやすい形でその努力が結実しているようだ。
チェーホフに関心のある方であれば手にして損はない一冊だと思う。

『サハリン島』 チェーホフ(中央公論新社)

サハリン島サハリン島

書名:サハリン島
著者:アントン・チェーホフ
訳者:原卓也
出版社:中央公論新社
ページ数:422

おすすめ度:★★★★




チェーホフの短編小説でも戯曲でもなく、旅行記となるのが本書『サハリン島』である。
当時のサハリンはロシア帝国にとっての流刑地であり、旅行者が訪れるような場所とはかけ離れた存在であって、旅行記というよりはルポルタージュと呼ぶ方がふさわしい内容になっている。

チェーホフは、シベリアから海峡を渡ってサハリン北部へ、その後サハリンの南部へと、流刑地としての実情を詳細に調査しながら旅を続ける。
サハリンの厳しい気候、囚人管理や植民地経営のずさんさなどが活写されていて、『サハリン島』の出版をきっかけにロシアでサハリン島の実態が社会問題の一つとして取り上げられるようになったことも頷けるというものだ。
統計データばかりを並べるのではなく、随所に具体的なエピソードなども挟んだ作品となっていて、チェーホフならではの読みやすさも健在である。

『サハリン島』には、サハリンに居住していた民族の一つであるアイヌはもちろん、日本領事などもわずかではあるが登場し、日本人読者を楽しませてくれる。
チェーホフというヨーロッパの一教養人の視点から描かれており、多少のバイアスの存在は否めないものの、日本に関することは概ね好意的に書かれているようで、日本人の読者としてはうれしい限りである。
チェーホフには日本を美化して伝える必要はなかったはずなので、実際にチェーホフの目に映ったとおりの見解が述べられているのだろう。

チェーホフの作家としての最大の転機はサハリン島訪問であると考える研究者が多く、チェーホフを語る上でサハリンでの体験は欠かすことのできないものとなっている。
チェーホフが何を見て、何を感じたことで後期チェーホフが生まれたのかを考えてみるというのも、チェーホフのファンには『サハリン島』の面白い読み方になるのではなかろうか。
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