『永遠の薔薇・鉄の貨幣』 ボルヘス(国書刊行会)

永遠の薔薇,鉄の貨幣 (文学の冒険シリーズ)永遠の薔薇,鉄の貨幣 (文学の冒険シリーズ)
(1989/08)
ホルヘ・ルイス・ボルヘス

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書名:永遠の薔薇・鉄の貨幣
著者:ホルヘ・ルイス・ボルヘス
訳者:鼓直、清水憲男、篠沢真理
出版社:国書刊行会
ページ数:197

おすすめ度:★★★★




ボルヘス後期の詩集である『永遠の薔薇』と『鉄の貨幣』を一冊にまとめたものが本書である。
発表年が相次いでいるので作風は類似している印象を受けるが、いずれも非常にボルヘスらしさが出ている詩集だ。
ボルヘスの詩集を初めて読む人にもとっつきやすい作品であるように思う。

いずれの詩集においても、詩、鏡、盲目など、ボルヘスおなじみのテーマを用いた作品の中に、アルゼンチン人としてのアイデンティティーを表すかのようなラテンアメリカを舞台にしたもの、アングロ・サクソンやヴァイキングを題材にしたものが混ざり合い、そこにオリエンタルな雰囲気の作品も織り交ぜられている。
この本に限ったことではないが、『永遠の薔薇・鉄の貨幣』はボルヘスの世界の幅広さを窺い知ることができる作品であると言えるだろう。
ボルヘスの助手で、後に妻となるマリア・コダマと世界を旅した記録である『アトラス―迷宮のボルヘス』と合わせて読めば、ボルヘスの依拠する世界、彼が作り上げた迷宮世界のほうではなく現実に存在する世界のことだが、そのイメージをより膨らませることができるはずだ。
とはいえ、ボルヘス本人はその現実世界をも「夢」であると言うかもしれないが・・・。

『永遠の薔薇』と『鉄の貨幣』は、いずれも甲乙付けがたい二作品であるが、強いて言うならば『鉄の貨幣』のほうが南米色が強いだろうか。
邦訳の出ている南米の作家はそう多くはないので、ラテンアメリカをテーマにした作品は、ボルヘスをあまり知らない読者には新鮮なものと感じられることだろう。

『永遠の薔薇・鉄の貨幣』は、国書刊行会から「文学の冒険シリーズ」の一冊として出されたものだ。
「冒険」というニュアンスからすれば、ボルヘスの初期の作品のほうがシリーズ入りするにふさわしかったような気がしないでもないが、二つの詩集を収録しているということもあり、読み応えは十分の本に仕上がっている。
中古でしか手に入らないのが現状であるが、ボルヘスファンには自信を持ってお勧めできる本だ。
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『ボルヘスの「神曲」講義』 ボルヘス(国書刊行会)

ボルヘスの「神曲」講義 (ボルヘス・コレクション)ボルヘスの「神曲」講義 (ボルヘス・コレクション)
(2001/05)
ホルヘ・ルイス ボルヘス

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書名:ボルヘスの「神曲」講義
著者:ホルへ・ルイス・ボルヘス
訳者:竹村 文彦
出版社:国書刊行会
ページ数:203

おすすめ度:★★★☆☆




欧米文学の中でダンテの『神曲』を最も優れた作品とみなしていたボルヘスによる『神曲』論が、この『ボルヘスの「神曲」講義』だ。
十ページ程度の小論を連ねたものなので、『神曲』の入門書としてはいまひとつであり、同様に『神曲』全体に対する概観を求める読者にも不向きかもしれないが、『神曲』を読んでいて、なおかつボルヘスのファンであれば楽しめる本であろう。
そういう意味では、読者は限定的とならざるをえないかもしれない。

『ボルヘスの「神曲」講義』は、序章と九つの論考を一冊にまとめたものである。
神曲』ほどの古典的名作ともなると有名な場面がいくつもあるが、ボルヘスはそれらのうちのいくつかにも触れている。
七つの夜』の中の「神曲」の夜など、ボルヘスが残したその他の評論や講演と合わせて読めば、『神曲』への興味が高まるに違いない。
ブレイク『神曲』
神曲』を題材にした絵画を描いた画家は少なくないが、『ボルヘスの「神曲」講義』にはその中で最も有名な画家の一人であるブレイクの挿絵がカラーで数枚入っている。
右は、その中でさらに最も有名であろうと思われる、『グリフォンの引く凱旋車 ダンテを叱責するベアトリーチェ』。
煉獄篇第29~30歌の一場面を描いたもので、華やかな彩りの美しさに、ベアトリーチェとの再会を喜ぶ気持ちと、これから天国へと向かう期待がにじみ出ている秀作である。

ボルヘスの作品にも多大な影響を及ぼしている『神曲』、その影響は具体例を示してくれている解説からも窺うことができる。
ボルヘスと『神曲』の関係性を知る上で最適の本であることは間違いないだろう。

『ボルヘスの北アメリカ文学講義』 ボルヘス(国書刊行会)

ボルヘスの北アメリカ文学講義 (ボルヘス・コレクション)ボルヘスの北アメリカ文学講義 (ボルヘス・コレクション)
(2001/07)
ホルヘ・ルイス ボルヘス

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書名:ボルヘスの北アメリカ文学講義
著者:ホルヘ・ルイス・ボルヘス
訳者:柴田 元幸
出版社:国書刊行会
ページ数:208

おすすめ度:★★★☆☆




ボルヘスのイギリス文学講義』の姉妹編がこの『ボルヘスの北アメリカ文学講義』だ。
英米文学の教授だったボルヘスは、北米の文学にも通暁していて、愛好する作家・作品も多い。
なにしろ読みやすい本なので、アメリカ文学について知りたい人には手頃な入門書として、ボルヘスに興味のある人にはボルヘスのとらえた北米文学について知ることのできる本としてお勧めしたい。

『ボルヘスの北アメリカ文学講義』は、アメリカ文学史にその名を留める偉大な作家たちが一同に会した、いわばパンテオンだ。
既読の作品への言及は多大な関心を持って読めるだろうし、未読の作品へのそれは好奇心をくすぐられることだろう。
ボルヘスの他の作品中においてしばしば言及のあるポーやホーソーンなどの記述は特に興味深い。
ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件』のような推理小説を手がけたことのあるボルヘスだけに、推理小説も忘れてはいない。
正統文学史では無視ないしは軽視される分野にもスポットを当てているのは、本書の文章量を考えれば非常に珍しいことではなかろうか。

国書刊行会から出された「ボルヘス・コレクション」、これまで邦訳のなかった作品を多数出版してくれているのは非常にうれしいことなのだが、また活字が大きいのも読みやすくて歓迎すべきことなのだが、大きな活字で200ページそこそこの本となると、やはり内容にはいくらか乏しさを感じてしまう。
ここ数年、ボルヘスの作品が相次いで岩波文庫化されたが、この『ボルヘスの北アメリカ文学講義』あたり、『ボルヘスのイギリス文学講義』と合わせて一冊の文庫にでもなってくれるとありがたいように思う。
読書案内―世界文学 (岩波文庫)読書案内―世界文学 (岩波文庫)
(1997/10/16)
サマセット・モーム

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ボルヘスのイギリス文学講義』と比べると、アメリカ文学の歴史の浅さもあってか、本書はやや密度の高いアメリカ文学の解説になっている。
とはいえ、「文学講義」という堅苦しい書名がやや不適当なものであると感じてしまうのは『ボルヘスのイギリス文学講義』と同様だ。
そしてここでもまた、類似の本として岩波文庫から出ているモームの『読書案内―世界文学』を紹介しておくことにする。

『ボルヘスのイギリス文学講義』 ボルヘス(国書刊行会)

ボルヘスのイギリス文学講義 (ボルヘス・コレクション)ボルヘスのイギリス文学講義 (ボルヘス・コレクション)
(2001/02)
J.L.ボルヘス、M.E.バスケス 他

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書名:ボルヘスのイギリス文学講義
著者:ホルヘ・ルイス・ボルヘス
訳者:中村 健二
出版社:国書刊行会
ページ数:196

おすすめ度:★★☆☆☆




英米文学の教授をしていたボルヘスによる、イギリス文学を広く浅く紹介した本がこの『ボルヘスのイギリス文学講義』である。
英語での原題は「An introduction to English literature」で、イギリス文学初心者向けの総覧といった本だ。
「文学講義」というほど堅苦しい内容ではないので非常に読みやすいが、ボルヘスのファンからするとあっさりとした記述に少々残念な気がすることだろう。

紙幅に限りがあるので個別の作品に深入りすることはほぼなく、イギリス文学史に名を残す作家の伝記的事実の説明や、大雑把な作風の解説が主である。
イギリス文学という歴史あるテーマを論じているわりに、文章量自体は決して多くないため、名だたる作家でさえもが数ページ、もしくは数行で終えられるので、本書はあたかも走馬灯のような雰囲気を帯びている。
一般のイギリス文学史と比べると取り扱う作家や作品にむらや偏りがあるが、逆を言えば、その偏りが著者であるボルヘスの関心を探る指針とはなるだろう。
続審問』などの評論で言及される作家が、この『ボルヘスのイギリス文学講義』でどのように触れられているのかを見てみるのはなかなか面白い。
読書案内―世界文学 (岩波文庫)読書案内―世界文学 (岩波文庫)
(1997/10/16)
サマセット・モーム

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同様の本としてお勧めなのは、モームの『読書案内―世界文学』だ。
こちらはイギリス文学、ヨーロッパ文学、アメリカ文学の三章から成っている本で、ボルヘス同様、読書に楽しみを求めるモームの推薦は、次に読む本を決める際に大いに参考になることだろう。

『ボルヘスのイギリス文学講義』という書名から想像するような、ボルヘス流の文学論を期待すると、がっかりすることになるかもしれない。
原題については先ほども触れたが、「文学講義」などという大仰なタイトルではなく、原題に即したもの、それこそ『読書案内』のようなものにするか、もう少し内容に沿ったものにしてくれれば、期待外れの感がいくらか薄れたに違いない。

『ホーソーン短篇小説集』 ホーソーン(岩波文庫)

ホーソーン短篇小説集 (岩波文庫)ホーソーン短篇小説集 (岩波文庫)
(1993/07/16)
ホーソーン

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書名:ホーソーン短篇小説集
著者:ナサニエル・ホーソーン
訳者:坂下 昇
出版社:岩波書店
ページ数:363

おすすめ度:★★★★




『緋文字』の作者として有名なホーソーンだが、彼は同時に多くの優れた短編小説を残した作家でもあった。
そんな彼の、『緋文字』以前の短編作品12点を収めたのがこの『ホーソーン短篇小説集』である。
ゴシック風のものあり、メルヘン風のものありと、幅広い作風の作品が集められていると感じる一方で、ピューリタン、悪魔や魔女、罪などといった、非常にホーソーンらしいテーマが散見する短編集でもある。

育った環境も大きな要因の一つであろうが、ホーソーンの作品はその多くが宗教的なイメージに彩られている。
牧師や魔女、罪の意識といったテーマは定番中の定番であり、読者はこの『ホーソーン短篇小説集』においてもそれらに頻繁に出くわすことだろう。
後に『緋文字』を書いた作者の手になる短編だと思えば、いかにも納得の内容と感じられるに違いない。

最大のお勧めは、『ウェークフィールド』というボルヘスが激賞してやまなかった作品で、作風でいうとポーやカフカに近い。
他の収録作品と比べると、舞台がロンドンであるというだけですでにホーソーンの作品としてはやや異色の感があるのだが、事実、全体を通して他の作品との類似性がきわめて弱い。
18、19世紀のアメリカ社会を反映していない分、それだけより普遍的な人間心理に迫った名作と言えるであろうか。

表紙には、ホーソーンの短編小説のうち、「物語性に優れた12篇を厳選」したとある。
すべてがすべて傑作であるとは言いがたいものの、筋の巧みさの感じられる作品もあれば、建国間もない頃のアメリカの閉鎖的で不寛容な社会を反映しているものもあったりと、ホーソーンという作家とその時代を知る上では格好の短編集となっている。
手軽に読める文庫版でもあることだし、『緋文字』を読んだ方であれば、一度手にしてみても悪くない本だろうと思う。

『七つの夜』 ボルヘス(岩波文庫)

七つの夜 (岩波文庫)七つの夜 (岩波文庫)
(2011/05/18)
J.L.ボルヘス

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書名:七つの夜
著者:ホルヘ・ルイス・ボルヘス
訳者:野谷 文昭
出版社:岩波書店
ページ数:256

おすすめ度:★★★★




晩年のボルヘスが七夜にわたり行った講演を一冊の本にまとめたものがこの『七つの夜』である。
ボルヘスの愛読書である『千一夜物語』をテーマにした夜もあるのだが、一夜ごとに一つのテーマを決めて語るというこの構成自体が、故意なのか偶然なのか、すでに『千一夜物語』風になっている。
扱っているのはボルヘスが長年心中で温めてきたテーマばかりであり、本書の編集途中のボルヘスに「私の遺言書になりそうだ」と言わしめたそうだ。
語り口調で訳されているためにたいへん読みやすく、一見難しそうに思えるテーマも肩肘張らずに読めることだろう。

『七つの夜』は、『千一夜物語』の他に、『神曲』、「悪夢」、「詩」、「仏教」、「カバラ」、「盲目」をテーマにした講演を収めている。
宗教的・神秘的なものに強い関心を示し続けたボルヘスだけに、彼の口から語られる「仏教」や「カバラ」の話は非常に興味深い。
また、徐々に光を失っていったボルヘスが、ホメロスやミルトンを引き合いに出しつつ論じる「盲目」についての話も、一味違う感動を与えてくれることだろう。

ボルヘスが高く評価してやまなかった『千一夜物語』と『神曲』は、ボルヘスの中で確固たる地位を占めている。
これら二作品については、『続審問』などの他の作品でもしばしば言及されてきているし、『神曲』に至っては『ボルヘスの「神曲」講義』という単行本まで出しているほどだ。
そのあまりの長大さが敬遠される原因でもあり、同時に魅力の源でもある『千一夜物語』はともかくとしても、『神曲』をまだお読みでない方は、ボルヘスに勧められたと思ってぜひ一読を。

作家としてのボルヘスの魅力だけではなく、老境に差し掛かったボルヘスの人間性の美しさも垣間見ることのできる『七つの夜』。
枕元にでも置いておき、七晩に分けて読んでみてはいかがだろうか。

『砂の本』 ボルヘス(集英社文庫)

砂の本 (ラテンアメリカの文学) (集英社文庫)砂の本 (ラテンアメリカの文学) (集英社文庫)
(2011/06/28)
ホルへ・ルイス・ボルヘス

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書名:砂の本
著者:ホルヘ・ルイス・ボルヘス
訳者:篠田 一士
出版社:集英社
ページ数:288

おすすめ度:★★★★★




ボルヘスの短編集としては後期の作品である『砂の本』。
執筆時点でボルヘスは七十代も半ばに達していたはずであるが、創作力の衰えは微塵も感じられず、まさに作家人生の集大成とも呼ぶべき傑作である。

ボルヘスの短編集に見られる作風の変遷には興味深いものがある。
初期の作品である『伝奇集』と『エル・アレフ』は、作風も似通っていて、二冊を続けて読んでもほとんど違和感がない。
そのボルヘスが、『ブロディーの報告書』では、直截的でリアリスティックな作品群を書き上げたものだから、中には期待外れに感じた読者もいたことだろう。
そしてその五年後に発表されたものがこの『砂の本』である。
こちらは一般の読者が思い描くボルヘスのイメージ、前衛的な初期の作風に回帰したかのような晩年の作品集で、ボルヘスの描き出す迷宮を期待する読者を裏切ることはないだろう。
ラテンアメリカ/集英社ギャラリー「世界の文学」〈19〉ラテンアメリカ/集英社ギャラリー「世界の文学」〈19〉
(1990/02/20)
川村 二郎、 他

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右は「集英社ギャラリー」のラテンアメリカ編で、ボルヘスの作品では『伝奇集』、『エル・アレフ』、『砂の本』を収録している。
一冊でこれだけのボルヘスの短編集を収めているものはおそらく他に例がないし、さらにこの本にはアストゥリアスの『大統領閣下』やガルシア=マルケスの『族長の秋』といった中南米を代表する作家の作品も併録されているという圧倒的なボリュームが非常に魅力なのだが、1300ページ超えの分厚さは扱いに困ることがあるかもしれない。

ボルヘスの短編作品を堪能したい読者は、上記の「集英社ギャラリー」が選抜したように、『伝奇集』、『エル・アレフ』、『砂の本』、この三つは必読である。
それらの中にはエッセイ風の短編も含まれているが、ボルヘスの描く世界に魅了された読者は、『続審問』や『七つの夜』のような、ボルヘスが多用するモチーフをより深く掘り下げたエッセイや講演集、これらも必ずや楽しんでいただけることと思う。

『続審問』 ボルヘス(岩波文庫)

続審問 (岩波文庫)続審問 (岩波文庫)
(2009/07/16)
J.L. ボルヘス

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書名:続審問
著者:ホルへ・ルイス・ボルヘス
訳者:中村 健二
出版社:岩波書店
ページ数:406

おすすめ度:★★★★




ボルヘスのエッセイ・評論を集めたものがこの『続審問』である。
本書は、かつて『異端審問』というタイトルで晶文社から出版されていたものが、近年になって『続審問』と名を変えて岩波文庫入りしたものだが、訳者は変わらないので、どちらの版でも訳文にそう大きな異同はないだろう。
ボルヘスの博識が織り成す世界観は、独特ではあるものの妙に説得力があり、ボルヘスの他の作品を知らない読者でも大いに楽しめる一冊となっている。

ボルヘスといえば『伝奇集』のような短編小説集が日本では最も有名だろうが、実際には彼は詩人でもあり、評論集や講演集をも出版している。
そしてその評論集はといえば、短編小説に負けず劣らずの面白さで、ボルヘスの膨大な読書量を駆使するには、評論の方が向いているという印象さえ受ける。
いずれにしても、読者は博識な作者の知見に触れることができるわけだから、非常に勉強になる本であることは間違いない。

世にもまれな読書家であるボルヘス、彼がその知見を存分にふるって書いた小論から成る『続審問』を理解するには、当然ながら読む側も豊かな知識を持っているに越したことはない。
とはいえ、研究者などならいざ知らず、一般の人が彼の読んだであろう本のすべてを読むことは非常に困難であろう。
むしろ、ボルヘスの言及をきっかけに次に読む本を決めるくらいのスタンスで臨んだほうがいいのかもしれない。

ボルヘスの評論集で文庫化されているものはあまり多くはない。
そんな中、最も興味深いものの一つである『続審問』が文庫化されたというのは、ボルヘスファンにはとてもうれしいニュースだ。
これを機に、豊穣な知の源泉のごときボルヘスがますます多くの読者を獲得することを期待したい。

『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件』 ボルヘス(岩波書店)

ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件
(2000/09/26)
ホルヘ・ルイス ボルヘス、アドルフォ ビオイ=カサーレス 他

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書名:ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件
著者:ホルヘ・ルイス・ボルヘス、アドルフォ・ビオイ=カサーレス
訳者:木村 栄一
出版社:岩波書店
ページ数:291

おすすめ度:★★★☆☆




ボルヘスとビオイ=カサーレスとが、オノリオ・ブストス・ドメックとのペンネームで執筆したのがこの『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件』だ。
迷宮の作家であるボルヘスは、推理小説風の短編作品も残しているし、ポーやチェスタトンなどのミステリー作家に対する関心も高かったから、ボルヘスが推理小説に手を染めるのはある程度当然の成り行きだったのかもしれない。
推理小説としての完成度はそれほどでもないように思うが、六つの話がそれぞれ非常にコンパクトでたいへん読みやすいので、ボルヘスらしさこそないものの、ボルヘスの名を冠する本の中では最も気軽に手にすることができるものの一つだろう。

ドン・イシドロ・パロディは、無実の身ながら有罪を宣告され、そしてその有罪になるまでの経緯の滑稽さはなかなか傑作なのだが、いずれにしても、彼は監獄生活を送る囚人である。
そんな彼の独房に事件の関係者が相談に来るというのが本作のパターンだ。
そういうわけで、パロディはホームズのように入念に現場を探るタイプではなく、『モルグ街の殺人』のデュパンのように第三者からの伝聞によって推論するという、いわゆる「書斎の人」タイプの名探偵だ。

この『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件』、文章のほとんどが事件に関する描写のみに絞り込まれており、ストーリーがきわめて簡潔にまとまっているのは長所でもあるが、同時に短所でもあるように思う。
パロディのもとに相談に来る人々は戯画化され、一定の性格が窺えるのだが、肝心のパロディの方はというと性格づけが明らかに物足りなく、主人公としての存在感や風格に欠けていて、パロディのファンになる読者は一人として現れないのではないかと考えたくなるほどだ。

長いものでも60ページ程度と、それぞれの事件がとても簡潔に語られ、軽い読み物である反面、ミステリーとしては少々物足りない印象も受ける。
推理小説をお探しの方にというよりは、ボルヘスやビオイ=カサーレスの著作に興味のある人向けの本だろう。

『アトラス―迷宮のボルヘス』 ボルヘス(現代思潮新社)

アトラス―迷宮のボルヘス (^Etre・エートル叢書)アトラス―迷宮のボルヘス (^Etre・エートル叢書)
(2000/10)
ホルヘ・ルイス ボルヘス

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書名:アトラス―迷宮のボルヘス
著者:ホルヘ・ルイス・ボルヘス
訳者:鼓 宗
出版社:現代思潮新社
ページ数:108

おすすめ度:★★★☆☆




ボルヘス最晩年の旅行記が本書『アトラス―迷宮のボルヘス』である。
ボルヘス独特の世界観を伝える文章の美しさの光る作品だ。
また、表紙にもボルヘスと並んで写っているが、日系人の助手であるマリア・コダマが撮影した写真が多数用いられていて非常に読みやすい。
全般にテーマの選び方がいかにもボルヘスらしさに満ちていて、ボルヘスに興味のある人ならば必ずや楽しめることだろう。

高齢に達したボルヘスは、ほぼ盲目の状態でマリア・コダマと世界各地を回っている。
旅行記とはいっても、旅先の魅力を紹介する普通の意味での旅行記とは異なり、ボルヘスの内面世界を象徴するような写真を手がかりに、ページを繰るのに合わせて彼の心のひだが一枚一枚めくられていくかのような印象を受ける作品である。
七つの夜』などの講演集にも言えることだが、執筆時点で八十歳を過ぎているにもかかわらず、ボルヘスの記憶力や感受性の衰えを感じさせない仕上がりには驚かされる。

ボルヘス最晩年の作品であるこの『アトラス』は、1983年と比較的近年に出版された本だが、ボルヘスの没年が1986年であることを考え合わせると、読者にまた違った味わい深さを与えてくれるだろう。
加えて、助手として同行していたマリア・コダマと、ボルヘスが死の数ヶ月前に結婚しているという伝記的事実もある。
ボルヘスに関心を抱く読者からすれば、興味の尽きない本といえるだろう。

さほど難解な印象を受けることもないし、文章量自体も決して多くないので、『アトラス』はボルヘス初心者が読むのにも悪くない一冊かもしれない。
最晩年の作品から出発するのではなく、できれば出版年代順に読みたいと感じられる読者もいるだろうが、そのような時間の流れに対する考え方こそ、おそらくはボルヘスの流儀に最も反するものなのだから、なおさらのことだ。

『エル・アレフ』 ボルヘス(平凡社ライブラリー)

エル・アレフ (平凡社ライブラリー)エル・アレフ (平凡社ライブラリー)
(2005/09)
ホルヘ・ルイス ボルヘス

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書名:エル・アレフ
著者:ホルヘ・ルイス・ボルヘス
訳者:木村 榮一
出版社:平凡社
ページ数:261

おすすめ度:★★★★★




伝奇集』に次いで出されたボルヘスの短編集が、この『エル・アレフ』だ。
本作では、表題作である「エル・アレフ」をはじめ、「不死の人」や「タデオ・イシドロ・クルスの伝記」のような無二の傑作に出会えることだろう。
伝奇集』と比べて、やや話の筋をつかみやすい作品が多いようなので、ボルヘスの短編作品に初めて触れる方にもお勧めできる。

ボルヘスは、自身の作品に実在の人物、例えば友人の作家やボルヘス自身を登場させたりすることで、摩訶不思議な作品世界に一抹の現実味を与えようとし、そしてそれに成功している。
作者本人が登場するというのは、彼が心酔していたダンテが『神曲』において用いた手法なので、たいていはそこにルーツを求めているようだが、いずれにしても、「ボルヘス」という登場人物のいる作品には独特の味わい深さがあり、読者はそれを強く記憶に留めることだろう。
短編集『エル・アレフ』の中でも「ボルヘス」との出会いに事欠くことはない。
ボルヘスが描く「ボルヘス」の世界、作家本人からすれば、「鏡」の中の世界とでもいえるだろうか。
そして「鏡」は、ボルヘスがよく使用する最重要モチーフの一つであり・・・『伝奇集』に負けず劣らず、『エル・アレフ』は「無限」の興味が沸き起こる作品のはずだ。
不死の人 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)不死の人 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)
(1996/08)
ホルヘ・ルイス ボルヘス

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『エル・アレフ』は、過去に『不死の人』というタイトルでも邦訳が出されていたらしい。
右は白水Uブックスから出された『不死の人』で、私は手にしたことがないので内容等は未確認だが、おそらくは同じ内容の本だろう。
平凡社の『エル・アレフ』が現在品切れのようなので、新品を好まれる方はこちらの『不死の人』を読むという手もある。

伝奇集』に連なる短編集である『エル・アレフ』からおよそ二十年のときを経て、次なるボルヘスの短編集は『ブロディーの報告書』だ。
一度読み出したら癖になるボルヘス作品を、ぜひ読み進めていってほしいと思う。

『伝奇集』 ボルヘス(岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)伝奇集 (岩波文庫)
(1993/11/16)
J.L. ボルヘス

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書名:伝奇集
著者:ホルヘ・ルイス・ボルヘス
訳者:鼓 直
出版社:岩波書店
ページ数:282

おすすめ度:★★★★★




アルゼンチンのみならず、ラテンアメリカを代表する作家であるボルヘスの代表作がこの『伝奇集』だ。
洋の東西を問わない豊富な学識を、詩人としての鋭敏な感性を用いて書き上げた、そんな印象を受ける独特な作風の短編集だ。
ボルヘスの作品はよく難解であると評されるし、明確な筋のある話を集めた一般的な意味での短編集ではないので、好きか嫌いか両極端な反応が予想されるが、どっぷりはまる可能性に賭けて、ぜひ一度は読んでみてほしい、そんな本だ。

おそらく『伝奇集』に収められている短編作品のあらすじを述べようとすることほど野暮なこともないだろう。
ボルヘスの魅力は言葉の迷宮にこそあるのだし、各々の読者が迷い込む迷宮で私がどのように迷ったのかをあらかじめ伝える必要もないはずだ。
ボルヘスの描く世界が迷宮であるからこそ、すべての読者は異なる道筋を進むのではなかろうか。
また、迷宮から抜け出すことができなくても、迷うこと自体を面白いと感じることができるのではなかろうか。

夢、時間、本、言葉、無限・・・ボルヘスの好むモチーフは数多いが、いくつか彼の作品を読んでいるうちに、きっと読者はボルヘスの傾向性をつかむことができるだろう。
それらのモチーフはいわばアリアドネの糸、迷宮を練り歩く際の手助けとなってくれるに違いない。
ボルヘスの他の作品に触れてから『伝奇集』に戻るとまた違う楽しみを味わうことができるはずなので、ボルヘスは再読をお勧めしたい作家でもある。

一般受けが絶望的であるこの『伝奇集』は、不幸にして途中で投げ出されることの多い本の一つだろう。
しかし、これを最後まで読み通し、ボルヘス・ワールドに魅了された読者は、『エル・アレフ』、『砂の本』と読み進めていただきたい。
ボルヘス・ワールドのさらなる虜となること疑いなしだ。

『百歳の人―魔術師』 バルザック(水声社)

百歳の人―魔術師 (バルザック幻想・怪奇小説選集)百歳の人―魔術師 (バルザック幻想・怪奇小説選集)
(2007/04)
オノレ・ド バルザック

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書名:百歳の人―魔術師(バルザック幻想・怪奇小説選集)
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:私市 保彦
出版社:水声社
ページ数:393

おすすめ度:★★★★




バルザック青年期の作品である『百歳の人』。
当時流行していたゴシック風怪奇小説で、ストーリー性がきわめて強いのが特徴だ。
本邦初訳なので、当然ながらあまり知られていない作品ではあるが、「人間喜劇」の作者であるバルザックと同一人物の筆になるとは思えないほど、余計なうんちくが排されている。
多少荒削りな印象を受けなくもないが、幻想文学の中ではだいぶ読みやすい作品だと思う。

ナポレオン軍の将軍であるべランゲルトは、事あるごとに出くわす不可思議な人物である「百歳の人」を探し求めている。
そんなある日のこと、将軍は自らにそっくりな顔の老人に会いに行くという女に出会うのだが、実は将軍と老人の二人は顔がそっくりだという・・・。
読み進めていくうちに「百歳の人」の秘密と、将軍との因縁が少しずつ明かされていく。
話の続きが気になる作品なので、退屈になって放り投げてしまう心配はないだろう。

あら皮』や『セラフィタ』など、人間喜劇の中で哲学的研究に分類されている作品をいくつも読んでいると、読者はバルザックがいかに神秘的なものに惹かれていたかを察することができる。
それらの作品と『百歳の人』との比較は、興味深い論点を提供してくれることだろう。
幻想・怪奇小説というのは、不思議な現象だけを描写し、読者を宙ぶらりんのままにすることもできるのだが、『百歳の人』に関して言えば、ナポレオン軍の史実とからめて話が展開されていたり、「百歳の人」の秘密を当時の科学的見解に基づいてほのめかしてみたりと、自らの作品にリアリティを与える工夫が周到に施されている。
そういう意味では、地に足のついた幻想・怪奇小説と呼んでも間違いではないかもしれない。

この『百歳の人』は、彼が人間喜劇の中に組み入れなかった初期の作品ではあるが、私には人間喜劇の作品群と比べて必ずしも出来が悪いようには思えない。
かといってバルザックを初めて読む人にまで勧めたいとは思わないのだが、少なくとも読み物としての楽しみは味わうことができるので、バルザックファンには一読をお勧めしたい。

『ドン・キホーテ 後篇』 セルバンテス(岩波文庫)

ドン・キホーテ〈後篇1〉 (岩波文庫)ドン・キホーテ〈後篇1〉 (岩波文庫)
(2001/02/16)
セルバンテス

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ドン・キホーテ〈後篇2〉 (岩波文庫)ドン・キホーテ〈後篇2〉 (岩波文庫)
(2001/03/16)
セルバンテス

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ドン・キホーテ〈後篇3〉 (岩波文庫)ドン・キホーテ〈後篇3〉 (岩波文庫)
(2001/03/16)
セルバンテス

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書名:ドン・キホーテ 後篇
著者:セルバンテス
訳者:牛島 信明
出版社:岩波書店
ページ数:441(一)、437(二)、441(三)

おすすめ度:★★★★★




前篇』から十年の年月を経て発表された『ドン・キホーテ 後篇』。
ドン・キホーテ本人も含めて登場人物はほとんどが『ドン・キホーテ』という本が大ヒットしたことを知っており、『前篇』とは若干趣が異なる作品世界が展開されている。
当然ながら前篇と後篇のどちらがより優れているかという議論になるのだが、このような問題の場合、完全なる意見の一致は期待すべくもないとはいえ、後篇に軍配を上げている論者が多いようだ。
いずれにしても、『前篇』と違い、ドン・キホーテと直接関係のない挿話が存在しないのは『後篇』の長所として挙げていいだろう。

再びサンチョと旅立ったドン・キホーテは、いくつかの事件を経た後に、『ドン・キホーテ 前篇』のファンであるという公爵夫妻に出会う。
様々ないたずらを仕掛けられつつも、遍歴の騎士として厚遇されるドン・キホーテは、ついに騎士としての幸せをつかんだのか・・・。
贋作ドン・キホーテ〈上〉 (ちくま文庫)贋作ドン・キホーテ〈上〉 (ちくま文庫)
(1999/12)
アベリャネーダ

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贋作ドン・キホーテ〈下〉 (ちくま文庫)贋作ドン・キホーテ〈下〉 (ちくま文庫)
(1999/12)
アベリャネーダ

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セルバンテスの暮らす現実世界のほうでは、『ドン・キホーテ 前篇』の大ヒットを横目で見ていたアベリャネーダという男が、セルバンテスが後篇を執筆している最中に『ドン・キホーテ』の続編を無断で出版したという事件も起きた。
しかも、贋作にもかかわらずその出来ばえはそう悪くないときている。
著作者の権利を保護しようという観念の弱かった時代のことだけに、うまく商機をつかんだものだと舌を巻くしかないのかもしれないが、セルバンテスはドン・キホーテに、贋作で参加したとされる槍試合について「そんなものには出たこともない」という意味の文句を言わせている。
後篇を熟読したい方は、後篇においてしばしば言及のあるこの『贋作ドン・キホーテ』を先に読んでおくのもいいと思う。

ドン・キホーテ 前篇』を読んだ読者は、ぜひこの後篇も読んでいただきたい。
最後の最後まで読み通せば、多くの読者にとってきっと『ドン・キホーテ』が「好きな本」ランキングの上位にランクインすることだろう。
そして、ドン・キホーテとサンチョ・パンサという文学史上最高のでこぼこコンビも、楽しい思い出と共に長く記憶に残ることだろう。

『ドン・キホーテ 前篇』 セルバンテス(岩波文庫)

ドン・キホーテ〈前篇1〉 (岩波文庫)ドン・キホーテ〈前篇1〉 (岩波文庫)
(2001/01/16)
セルバンテス

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ドン・キホーテ〈前篇2〉 (岩波文庫)ドン・キホーテ〈前篇2〉 (岩波文庫)
(2001/01/16)
セルバンテス

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ドン・キホーテ〈前篇3〉 (岩波文庫)ドン・キホーテ〈前篇3〉 (岩波文庫)
(2001/02/16)
セルバンテス

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書名:ドン・キホーテ 前篇
著者:セルバンテス
訳者:牛島 信明
出版社:岩波書店
ページ数:431(一)、393(二)、399(三)

おすすめ度:★★★★★




スペインが誇る超大作がセルバンテスの『ドン・キホーテ』だ。
「聖書に次ぐベストセラー」とも評されるほどで、筋の面白さが抜群な上に難解な部分はないときているので、一般受けは確実だ。
後篇』と合わせると全六巻と、なかなかの長編作品だが、どんどん読めてしまう傑作なので、臆することなくぜひ読み始めてみてほしい。

ドン・キホーテは、本名をアロンソ・キハーノというスペインの片田舎に暮らす下級貴族なのだが、『狂えるオルランド』のような騎士道物語に読みふけるあまり頭がおかしくなってしまう。
そんな彼がサンチョ・パンサという従者を従えて遍歴の騎士の真似事をし始めるわけだが、決して血の巡りのいい頭を持っていないサンチョが突きつける現実世界の描写と、魔法だ巨人だと荒唐無稽な妄想に侵されているドン・キホーテのちぐはぐなやり取りは、ただただ面白いとしか言いようがない。
一人はやせたのっぽ、一人はでぶのちび、この対照的な二人の珍道中はあまりに滑稽で、ひょっとすると『ドン・キホーテ』で笑えない読者はどの文学作品でも笑うことはできないのではなかろうか。

岩波文庫版には、表紙の絵がその一例だが、『狂えるオルランド』でも紹介したギュスターヴ・ドレの版画が多数挿入されている。
風車への突撃など、『ドン・キホーテ』には名場面が数多く存在するのだが、おそらくドレの描いた図像と共に強く読者の記憶に残るはずだ。
興味のある方は他の画家が描いたドン・キホーテ像を探してみるのも面白いだろう。
今ざっと思い出すところでは、ドーミエやピカソが特徴的で興味深い作品を残していたように思う。

文学作品としてあまり高く評価されることのなかった『ドン・キホーテ』は、後世になって様々な観点からその価値を認められて名を高めていった作品の一つだが、一般の読者が読むにあたっては、「単に滑稽な小説」として読むだけでも十分だと思う。
なにしろ、ここまで楽しめる本はめったにありはしないのだから。

『エルサレム解放』 タッソ(岩波文庫)

タッソ エルサレム解放 (岩波文庫)タッソ エルサレム解放 (岩波文庫)
(2010/04/17)
トルクァート・タッソ

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書名:エルサレム解放
著者:トルクァート・タッソ
訳者:鷲平 京子
出版社:岩波書店
ページ数:560

おすすめ度:★★★★




タッソの代表作である『エルサレム解放』は、そのままイタリア・ルネサンス文学の代表作でもある。
18、19世紀にはこの作品に言及している作家が数多く存在したし、絵画やオペラなどにも数々のテーマを提供してきている古典中の古典の一つだ。
日本での知名度はいまひとつだが、それというのもろくに翻訳・紹介されてこなかったからだろう。
文庫版での出版を機に、『イリアス』や『狂えるオルランド』に連なる英雄叙事詩の傑作として多くの読者を獲得することを期待したい。

ストーリーの本筋は、十字軍の第一次遠征である。
当然のことながら、『エルサレム解放』との表題からも予想できるとおり、やはり圧倒的にキリスト教的な視点で描かれているが、宗教臭くてつまらないという印象を受けることはなく、神に仕える騎士たちとそれを迎え撃つイスラム戦士の攻防は非常に読み応えがある。
とはいえ、本書はオリジナルの『エルサレム解放』を三分の一程度に圧縮した抄訳なので、ひょっとすると退屈な部分を省いただけなのかもしれないが・・・。
アンニーバレ・カラッチ『リナルドとアルミーダ』
表紙にはアンニバーレ・カラッチの『リナルドとアルミーダ』が使用されている。
奥の茂みから兜をかぶった兵士が仲睦まじい男女を覗き見しているという構図は、どこか『スザンナの入浴』を思わせる。
余談ながら、昨年、非常に運良くこの絵が来日していたようで、私は京都でそれを見ることができた。
実物は幅数メートルの大作なので、それを文庫本の表紙にしてしまうとカラッチの迫力が大いにそがれてしまうのがいささか残念にも思われるが、作品の雰囲気を伝える絵画としては素晴らしい選択だろう。

これまで翻訳のなかった『エルサレム解放』が、手にしやすい文庫版で出版されたというのは非常に喜ばしいことだ。
しかし、ただ一つ難を言うならば、それが抄訳だということ。
あらすじの説明は付されているので話の筋がわからなくなることはないが、古典的名作だけにできれば全訳で読みたかった、というのが素直な感想だ。

『愛神の戯れ―牧神劇「アミンタ」』 タッソ(岩波文庫)

愛神の戯れ――牧神劇『アミンタ』 (岩波文庫)愛神の戯れ――牧神劇『アミンタ』 (岩波文庫)
(1987/05/18)
トルクァート・タッソ

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書名:愛神の戯れ―牧神劇「アミンタ」
著者:トルクァート・タッソ
訳者:鷲平 京子
出版社:岩波書店
ページ数:273

おすすめ度:★★☆☆☆




アリオストと並び、ルネサンス後期を代表するイタリア詩人であるトルクァート・タッソの代表作の一つ、『愛神の戯れ―牧神劇「アミンタ」』。
オリジナルのタイトルは、本文庫で副題とされている『アミンタ』のほうで、『愛神の戯れ』というのは内容に照らして付けられたものであり、あくまで意訳である。
個人的に、作品の顔であるタイトルの改変をあまり好まない上に、『愛神の戯れ』というのもあまり優れたタイトルではないように思うのだが、他の方々はどのように感じられるだろうか。

愛神、すなわちキューピッドが愛の種を蒔くという設定から話が始まる。
恋する男と、つれない素振りでそれをあしらう女、そしてそれぞれに相談役の友人。
いわゆる「愛神の戯れ」で幕が開いた牧歌劇は、登場人物が非常に少なく、筋の把握はきわめて容易である。
その中に一人、タッソ本人とみなすことのできる人物がいて、彼の言葉は読者の注意を引くことだろう。
しかしながら、「牧歌劇」というジャンルを確立したとして文学史の中での評価は高い作品かもしれないが、ストーリーの内容自体はやや月並みな感じがする。

本書には、日本ではあまり知られていないタッソの生涯についても、文庫版にしては十分すぎるほどの解説が付されている。
それを読む限りでは、タッソは非常に波瀾に富んだ人生を送っていたようだ。
タッソの生涯に関心を寄せたゲーテが、『トルクワートー・タッソー』という作品を執筆していることからも、その関心の高さが推察される。
ここではタッソが精神異常と判断されて病院に幽閉されていた時期があると紹介するだけで十分だろうか。

この『愛神の戯れ―牧神劇「アミンタ」』は、ウェルギリウスの『牧歌』に連なる作品として読むことができる。
そういう意味では、牧歌風作品の歴史の中では重要な一環を成していると言えるだろうが、作品自体のインパクトが強いとは言いがたい。
いずれにしても、タッソの作品に興味がある方には『エルサレム解放』のほうをお勧めしたい。

『狂えるオルランド』 アリオスト(名古屋大学出版会)

狂えるオルランド狂えるオルランド
(2001/08)
ルドヴィコ アリオスト

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書名:狂えるオルランド
著者:ルドヴィコ・アリオスト
訳者:脇 功
出版社:名古屋大学出版会
ページ数:467

おすすめ度:★★★★★




ルネサンス後期を代表するイタリアの詩人、アリオストの代表作がこの『狂えるオルランド』だ。
イリアス』を髣髴とさせるような長大な物語詩だが、『神曲』などと比べてストーリー性が格段に強く、擬古文で翻訳されていないこの『狂えるオルランド』は、詩作品としてではなく小説として読むこともできる。
『狂えるオルランド』はそもそもボイアルドの『恋するオルランド』の続編として書かれたものだが、『恋するオルランド』なしでも十分楽しむことのできる傑作として、強くお勧めしたい。

シャルルマーニュとイスラム人との戦いを描いた『狂えるオルランド』は、冒頭から終幕に至るまで、複雑に構成された筋の巧みさが光っている。
タイトルからしてオルランドが主人公であるように判断しがちだが、主役級の登場人物は必ずしもオルランドだけではない。
恋に、そして戦いに活躍する男女は数多く、きっと読者はそれぞれひいきのキャラクターが見つかることだろう。
場面の転換もめまぐるしく、続きが気になるところで場面を切り替えるという手法も見られる。
総じて、『狂えるオルランド』は一度読み始めた読者の心を離さない名作であると言えようか。
『アンジェリカを救うルッジェーロ』アングル
右は、『狂えるオルランド』を題材にしたアングルの『アンジェリカを救うルッジェーロ』だ。
この絵を見た多くの人は、おそらくより有名なエピソードであるペルセウスとアンドロメダを思い浮かべることだろう。
そしてアリオストがそれを下敷きにしているのは疑いようがない。
書き手だけではなく読み手の側も、ルネサンス期の文化人の常識として古代ギリシアに関する教養は欠かせなかっただろうから、今日の読者も『狂えるオルランド』を読む上でギリシア神話についてある程度の知識を持っておいたほうが楽しみの幅が広がるかもしれない。

尋常ではない強さの騎士がいたり、魔法のかかった武具が登場したりと、後に『ドン・キホーテ』で揶揄されることになる非現実的なストーリー展開の目白押しだが、騎士道物語の代表格である『狂えるオルランド』を知っていれば『ドン・キホーテ』がいっそう面白く読めることは間違いない。
訳文も非常に読みやすく、またギュスターヴ・ドレの挿絵もたいへん美しいものばかりで、値は張るがそれだけの価値がある本だと思う。

『変身物語』 オウィディウス(岩波文庫)

オウィディウス 変身物語〈上〉 (岩波文庫)オウィディウス 変身物語〈上〉 (岩波文庫)
(1981/09/16)
オウィディウス

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オウィディウス 変身物語〈下〉 (岩波文庫)オウィディウス 変身物語〈下〉 (岩波文庫)
(1984/02/16)
オウィディウス

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書名:変身物語
著者:オウィディウス
訳者:中村 善也
出版社:岩波書店
ページ数:366(上)、371(下)

おすすめ度:★★★★




ギリシア・ローマ神話に関する古典として有名な『変身物語』。
ギリシア神話には神の力によって様々な形に変身させられる人物が無数に登場するが、それらを一覧できるのが本書だ。
文学や絵画など、西洋文化に関心のある人は目を通しておくべき本の一つだろう。

『変身物語』には無数の話が詰まっているが、その中でもエコーやナルキッソスなど、今日に至るまで使用されている単語の語源になった物語は特に興味深く読めることだろう。
また、恋多き神であるユピテルの恋愛遍歴も読むことができる。
ユピテルはなんと好色の主神かと呆れてしまいそうになるが、何十年かで人生を閉じる人間と違い、不死の身である者ならそれくらいの数の色恋沙汰は普通なのかもしれない。

オウィディウスの代表作である『変身物語』は、しばしば同時代の詩人であるウェルギリウスの代表作『アエネーイス』と比較される。
いずれもラテン文学の傑作とされている作品だが、一方はエピソードの宝庫であり、一方はまとまりのある一つの物語であるから、単純に比較できるものでもないだろうが、私個人の意見としては、本自体としては『アエネーイス』の方が面白く、教養を得るための古典としては『変身物語』がはるかに優れているように思う。
西洋美術に関心のある方ならば同意していただけるように思うのだがいかがだろうか。

『変身物語』は、後世の芸術家に無数のモチーフを提供しているテーマを集めているだけに、たいへん興味深い本ではある。
しかし、古代ギリシアに詳しくない人が初めて手にするにしては、訳注こそあるものの、神や人物、地名などの固有名詞があまりにも多すぎて、おそらく何が何やら区別がつかなくなることだろうから、一度で全部を覚えようとはせず、最初は心の片隅にエピソードの輪郭を留めるくらいの気持ちで読むのがいいのかもしれない。
いずれにしても、辞典的な使い方もできるので、書架に並べておいて損はない本だと思う。

『完訳 緋文字』 ホーソーン(岩波文庫)

完訳 緋文字 (岩波文庫)完訳 緋文字 (岩波文庫)
(1992/12/16)
N. ホーソーン

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書名:完訳 緋文字
著者:ナサニエル・ホーソーン
訳者:八木 敏雄
出版社:岩波書店
ページ数:472

おすすめ度:★★★★★




本書はホーソーンの代表作である『緋文字』の完訳版だ。
わざわざ「完訳」と表記されているのは、この『緋文字』は冒頭の「税関」の章にて以下に語られるストーリーの関係書類が見つかるという体裁で始まる小説なのだが、その「税関」の章が省略されて翻訳されないことがあるためだ。
その章がなくても本筋は確かに成立するが、なるべく作者が書いたとおりのものに触れたいという読者は、「完訳」と書かれているものを選んだほうが無難だろう。

『緋文字』は若いアメリカ社会を舞台にした作品だ。
宗教色の強いピューリタン社会で、姦通をした人間の胸に記される緋色の「A」。
その緋文字を胸に愛娘と暮らしている女、ピューリタンとして模範的な生活を送っている牧師、この二人を中心に話は進んでいく。
宗教的生活と人間的生活、戒律と愛、真実と虚偽・・・対立項の間で模索する人々の心情を巧みに描いており、アメリカ文学初期の傑作として、『白鯨』と並びお勧めの長編作品だ。
スカーレット・レター [DVD]スカーレット・レター [DVD]
(2003/07/24)
デミ・ムーア、ゲイリー・オールドマン 他

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私は見ていないのだが、『緋文字』はデミ・ムーア主演の『スカーレット・レター』という映画になっている。
タイトルこそ原題に忠実だが、映画自体はあまり原作に従っていないらしいので、原作を知っている人が見るとおそらく賛否両論だろう。

宗教界と人間界の相克を描いた小説は、往々にして退屈きわまりない作品に堕しやすいものだが、この『緋文字』はテーマこそ深遠なものの、ストーリー性が強いおかげでたいへん読みやすく、読み始めるにあたり身構える必要はない。
17世紀のアメリカ社会という、あまり文学で触れられることの多くない時代を反映した名作でもあるので、他の文学作品と比べて独特な宗教的雰囲気も、必ずや楽しめることと思う。
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