『ライン河幻想紀行』 ユーゴー(岩波文庫)

ライン河幻想紀行 (岩波文庫 赤 531-9)ライン河幻想紀行 (岩波文庫 赤 531-9)
(1985/03/18)
ヴィクトル・ユーゴー

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書名:ライン河幻想紀行
著者:ヴィクトル・ユーゴー
訳者:榊原 晃三
出版社:岩波書店
ページ数:288

おすすめ度:★★★☆☆




フランスを代表する文豪ユーゴーが、ライン河に沿って旅をした際の印象や、ライン沿いの廃墟に関して知りえたエピソードなどを綴った作品がこの『ライン河幻想紀行』である。
原書のタイトルは『LE RHIN』らしいので、「幻想紀行」という邦題は本書独自のもののように思われるが、大自然に包まれながら太古のロマンに浸ったユーゴーによる詩的な描写に加え、幻想的なエピソードを数多く収録していることから、この邦題もどこかしっくりときている感じがする。
また、本書には当時のラインの様子を伝えるために数々の挿絵があり、中にはユーゴー自身のスケッチも収められているので、ユーゴーのファンであれば必ずや楽しめるはずの一冊だ。

『ライン河幻想紀行』は抄訳とのことであるが、オリジナルが数百ページにも及ぶ大著であるらしいため、本来であれば片手落ちに思えて仕方のない抄訳を嫌う私といえども、いくらかこの抄訳での出版を歓迎したい気持ちに傾いている。
すべての話がライン河とその周辺地域にまつわるものであるという共通点はあっても、全体が明確な一つのストーリーを成している作品ではないから、そこから抜粋を行ってもほとんど違和感のない仕上がりとなったのだろうか。
全般にやや歴史的な観点が強いという印象を受けたので、ある程度のドイツ史を予備知識として持っているほうがより楽しめるかもしれない。
とはいえ、挿絵も豊富で活字も大きめなので、それだけ敷居の低い本であると断言できるのもまた事実だ。

『ライン河幻想紀行』は紀行文であるから、やはり実際に現地を訪れる人が一番楽しく読めるのではなかろうか。
ドイツ行きのパック旅行といえば、メルヘン、ロマンチックなどの街道を巡るものが人気のようだが、その行程にライン河下りを加えているものも意外と多い。
ライン河を訪れる前後に本書を読めば、きっと旅先でのライン河の見え方、もしくはライン河の思い出も、一味変わった奥行きのあるものになるのではないかと思う。
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『モル・フランダーズ』 デフォー(岩波文庫)

モル・フランダーズ 上 (岩波文庫 赤 208-3)モル・フランダーズ 上 (岩波文庫 赤 208-3)
(1968/03/16)
ダニエル・デフォー

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モル・フランダーズ 下 (岩波文庫 赤 208-4)モル・フランダーズ 下 (岩波文庫 赤 208-4)
(1968/02/16)
ダニエル・デフォー

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書名:モル・フランダーズ
著者:ダニエル・デフォー
訳者:伊澤 龍雄
出版社:岩波書店
ページ数:278(上)、268(下)

おすすめ度:★★★☆☆




ロビンソン・クルーソー』の作者として知られるデフォーだが、そもそもの作品数が多くないとはいえ、彼の長編作品はあまり翻訳されていないのが現状だ。
そんな中の一つとしてかつて岩波文庫入りを果たしたのが、この『モル・フランダーズ』だ。
主人公がある行動に至るまでを細密に描き出す論理的な筆致は、多くの読者がいかにもデフォーによるものであると感じることができるのではなかろうか。

『モル・フランダーズ』は、同名の女主人公がその生涯を語るというスタイルの作品である。
語り手たるモルの回顧は、ロビンソンとはまったく異なった意味合いではあるものの、まさに波乱万丈と言っていいだろう。
というのも、結婚を繰り返す中で奔放な愛人関係を改めようともせず、金銭のためなら法をも犯すという悪女の一代記なのだ。
残忍さではかなり劣るものの、とはいえこの点において劣っているということは登場人物にとって決して不名誉なことではないだろうが、モルの無軌道な生活を読んでいて、私はサドの『悪徳の栄え』の主人公であるジュリエットを思い起こしたほどだ。

イギリス文学において、ファム・ファタル的な要素を備えた女主人公はそういないように記憶しているのだがいかがだろうか。
イギリス文学に対して基本的に道徳的な作品が多いというイメージを抱いているのは、おそらく私だけではないだろう。
ひょっとするとこの『モル・フランダーズ』は、その結末はともかくとして、イギリス文学中における数少ない悪女を描いた作品の一つなのかもしれない。

岩波文庫では少しも珍しいことではないが、『モル・フランダーズ』も絶版になって久しい作品である。
たいていの読者は『ロビンソン・クルーソー』を知った上でこの本を手にすることだろうが、『モル・フランダーズ』は必ずしも『ロビンソン・クルーソー』を読んだことがなくとも十分楽しみうる作品だと思う。
それどころか、『ロビンソン・クルーソー』より楽しめたという読者がいても、私は少しも驚かないことだろう。

『ロビンソン・クルーソー』 デフォー(岩波文庫)

ロビンソン・クルーソー〈上〉 (岩波文庫)ロビンソン・クルーソー〈上〉 (岩波文庫)
(1967/10/16)
デフォー

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ロビンソン・クルーソー〈下〉 (岩波文庫 赤 208-2)ロビンソン・クルーソー〈下〉 (岩波文庫 赤 208-2)
(1971/09/16)
デフォー

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書名:ロビンソン・クルーソー
著者:ダニエル・デフォー
訳者:平井 正穂
出版社:岩波書店
ページ数:416(上)、423(下)

おすすめ度:★★★★




キャスト・アウェイ [DVD]キャスト・アウェイ [DVD]
(2009/04/10)
ヘレン・ハント、トム・ハンクス 他

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『ロビンソン・クルーソー』といえば、誰もが孤島での一人暮らしというエピソードを知っているし、作者であるデフォーの名をはるかにしのぐ知名度を備えた作品であろう。
当然ながら登場人物は限られているし、ストーリーの振幅には限界があるものの、一人称で語られていく現実的な物語はたいへん読み応えがある。
右は現代版ロビンソン・クルーソーとでも言うべき、トム・ハンクス主演の『キャスト・アウェイ』だ。
この映画を見てロビンソン・クルーソーの名を思い出さない人はいないように思うし、孤島で暮らすというモチーフを世に知らしめた『ロビンソン・クルーソー』はやはり一読に値するのではなかろうか。

『ロビンソン・クルーソー』の上巻では、誰もが知る無人島への漂着とそこでの暮らしぶりが語られる。
下巻は第二部として後日発表された作品で、原題は『The farther adventures of Robinson Crusoe』であり、普通日本で『ロビンソン・クルーソー』として出版されている本では訳出されていないようで、二巻組みとなっている岩波文庫の『ロビンソン・クルーソー』が他の出版社のそれより二倍ほどの分量があるのはそういうわけだ。
下巻ではロビンソンが過ごした島を再訪するというエピソードが大半で、その後さらに航海、冒険を行う様子が描かれているが、『ロビンソン・クルーソー』の醍醐味はやはり上巻にあると言わざるをえない。
いかに窮地に陥ろうとも人道的な見地を固守しようとするロビンソンだが、他民族を見下すような言辞や宗教臭さが感じられる部分も多く、デフォーの作品に強い関心を抱いている方以外はあまり楽しめないかもしれない。
同時代の日本人、江戸時代中期の日本人が欧米人をどのように見ていたかを考え合わせれば、ロビンソンがキリスト教信仰や文明の恩恵を受けていない人々を「蛮人」だ「未開」だと蔑視することに対しても寛容にならなければならないのかもしれないが、そのような書きぶりを今日の読者が愉快に感じることは甚だ難しいから、『ロビンソン・クルーソー』の下巻は今後次第に読まれなくなっていく文学作品の一つであると思われる。

何はともあれ、あまりにも有名な古典である『ロビンソン・クルーソー』、上巻だけでもぜひ読んでみていただきたい作品だ。

『ジョウゼフ・アンドルーズ』 フィールディング(岩波文庫)

ジョウゼフ・アンドルーズ〈上〉 (岩波文庫)ジョウゼフ・アンドルーズ〈上〉 (岩波文庫)
(2009/04/16)
フィールディング

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ジョウゼフ・アンドルーズ〈下〉 (岩波文庫)ジョウゼフ・アンドルーズ〈下〉 (岩波文庫)
(2009/05/15)
ヘンリー フィールディング

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書名:ジョウゼフ・アンドルーズ
著者:ヘンリー・フィールディング
訳者:朱牟田 夏雄
出版社:岩波書店
ページ数:336(上)、353(下)

おすすめ度:★★★★




フィールディングの代表作として知られる『ジョウゼフ・アンドルーズ』。
ストーリーや作風は『トム・ジョウンズ』に似ているし、どちらかといえば『トム・ジョウンズ』の方が出来がいいように思われるが、全四冊からなる『トム・ジョウンズ』が少々長すぎるように思われる方には『ジョウゼフ・アンドルーズ』から読み始めてみるのもいいだろう。
喜劇的精神に満ちた『ジョウゼフ・アンドルーズ』、内容にややこしいところもなく、読みやすい文章でもあるので、気軽に手にとっていただける作品としてお勧めだ。

主人公の若者ジョウゼフ・アンドルーズと、その友人であり師でもあるアダムズ神父が、面白おかしい珍道中を繰り広げる。
謹厳なはずの神父が滑稽な事件に巻き込まれるというギャップはたまらなく愉快で、必ずや読者を楽しませてくれるだろう。
豊富な好人物に彩られた『ジョウゼフ・アンドルーズ』、活気に満ちた名作と呼べるのではなかろうか。

以前は『ジョウゼフ・アンドルーズ』は文学全集に収められていただけだったが、うれしいことについ最近岩波文庫に収められた。
本書を読み通せば、フィールディングはもちろん、訳者の朱牟田氏の魅力も感じていただけるのではないかと思う。
フィールディングを気に入られた読者には、こちらも朱牟田氏の翻訳によるほぼ同時代の作家、スターンの傑作『トリストラム・シャンディ』をお勧めしたい。
ユーモアあふれる作風が、イギリス文学をより身近に感じさせてくれること請け合いである。

作品の構成自体は非常に緩いが、それだけ登場人物たちが自由で動的なのかもしれない。
フィールディングの創り上げた人間味に富んだ物語はとても面白く読めるものと思うので、ぜひ気軽に手にしていただきたい作品だ。

『トム・ジョウンズ』 フィールディング(岩波文庫)

トム・ジョウンズ〈1〉 (岩波文庫)トム・ジョウンズ〈1〉 (岩波文庫)
(1975/06/16)
フィールディング

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トム・ジョウンズ〈2〉 (岩波文庫)トム・ジョウンズ〈2〉 (岩波文庫)
(1951/12)
フィールディング

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トム・ジョウンズ〈3〉 (岩波文庫)トム・ジョウンズ〈3〉 (岩波文庫)
(1975/08/18)
フィールディング

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トム・ジョウンズ〈4〉 (岩波文庫)トム・ジョウンズ〈4〉 (岩波文庫)
(1975/09/16)
フィールディング

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書名:トム・ジョウンズ
著者:ヘンリー・フィールディング
訳者:朱牟田 夏雄
出版社:岩波書店
ページ数:300(一)、320(二)、329(三)、294(四)

おすすめ度:★★★★★




18世紀のイギリスを代表する作家の一人で、「イギリス小説の父」とも呼ばれるフィールディングの代表作がこの『トム・ジョウンズ』である。
同じイギリス人であるモームの選んだ『世界の十大小説』に入ってもいるほどの作品だが、残念ながら今日の日本ではあまり読まれていないのではなかろうか。
イギリス版『ドン・キホーテ』とでも言うべき愉快な物語である『トム・ジョウンズ』は読みやすいことこの上なく、幅広い読者層に受け入れられるように思われる名作の一つなので、少々長いがぜひ読んでみていただきたい作品の一つだ。

『トム・ジョウンズ』は、実直で正義感の強い青年であるトム・ジョウンズの珍道中を描いた作品である。
親族との亀裂があったり、かなわぬ恋に身をやつしたり、痴話騒ぎに巻き込まれたりと、波瀾に満ちたストーリー展開が読者を飽きさせることはないはずだ。
読者は好感の持てる主人公トムと共に、登場人物たちが絶妙に絡み合う大団円に向けて突き進んでいくことができるだろう。

イギリス小説といえば、スウィフトやディケンズを筆頭に、ユーモア精神に富んだ傑作を物した作家たちの宝庫であるが、フィールディングもその系譜中の一人である。
それどころか、最も重要な作家の一人でもあるだろう。
そういう意味では、純粋に楽しい読み物を求めている読者も、イギリス文学史に関心のある読者も、いずれをも満足させうる作家がフィールディングであるように思う。

物語性が強く面白い上に、朱牟田氏の翻訳も非常に読みやすいので、繰り返しになるが『トム・ジョウンズ』はぜひ読んでみていただきたい作品だ。
『トム・ジョウンズ』を気に入られた読者には、数年前に同じくフィールディングの『ジョウゼフ・アンドルーズ』が岩波文庫から出されたので、そちらも非常にお勧めしたい。

『アネットと罪人』 バルザック(水声社)

アネットと罪人 (バルザック幻想・怪奇小説選集)アネットと罪人 (バルザック幻想・怪奇小説選集)
(2007/04)
オノレ・ド バルザック

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書名:アネットと罪人(バルザック幻想・怪奇小説選集)
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:私市 保彦、澤田 肇、片桐 祐
出版社:水声社
ページ数:460

おすすめ度:★★☆☆☆




水声社のバルザック幻想・怪奇小説選集のうち、『百歳の人』に続く第二巻として出されたのがこの『アネットと罪人』である。
百歳の人』と同様、バルザックの若い頃の作品で、こちらも本邦初訳とのことだ。
脱線のなさや物語性の強さは魅力であるが、あいにくと『アネットと罪人』は幻想的でもなければ怪奇小説でもないため、幻想・怪奇小説選集の一冊と期待して読むと拍子抜けする可能性が高いように思う。

『アネットと罪人』は、アネットという信仰心の厚い貞淑な女性と、過去の罪を背負った「罪人」を軸にした物語である。
敬虔な乙女ながら受け身に徹することのないアネットは、退屈なヒロインではないと言ってもいいように思う。
最初はゆっくりと話が進んでいくが、加速度的に盛り上がっていく作品なので、最後まで読み通せば読み応えのある作品に触れたと感じることだろう。
作品中に無数の伏線が張り巡らされているので、おおよその結末は想像がつくように書かれているが、そのせいか引き締まった印象を与える長編作品のように思えた。

『アネットと罪人』は本書が本邦初訳とのことだが、それはつまり、裏を返せばあまり高い評価を受けていない作品ということでもある。
確かに登場人物の性格の転回が激しすぎるきらいがあるような気もする。
バルザックの代表作として知られる『ペール・ゴリオ』や『谷間のゆり』と、作品の質として何が違うのか考えてみるのも面白いだろう。

内容からすると★三つを付けてもいいくらいなのだが、幻想・怪奇小説選集に収められているという場違いな感じが拭い去れないので、一つ減らして二つにしておく。
バルザックの幻想・怪奇小説を読まれたい読者には、『百歳の人』や『セラフィタ』の方をお勧めしたい。

『死刑囚最後の日』 ユーゴー(岩波文庫)

死刑囚最後の日 (岩波文庫 赤 531-8)死刑囚最後の日 (岩波文庫 赤 531-8)
(1982/06/16)
ヴィクトル・ユーゴー

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書名:死刑囚最後の日
著者:ヴィクトル・ユーゴー
訳者:豊島 与志雄
出版社:岩波書店
ページ数:169

おすすめ度:★★★★




ユーゴーが若い頃に書き上げた中編作品がこの『死刑囚最後の日』だ。
人が人の命を合法的に奪うという死刑制度の撤廃を求める立場から書かれた本なので、作品に盛り込まれた思想自体は容易に読み取ることができる。
死刑囚の目線で書かれた独白というスタイルが本書をたいへん読みやすくしており、ページ数も手頃なので、多くの人が死刑制度について考えるいい機縁となることだろう。

『死刑囚最後の日』には、主人公である死刑囚が刑の執行を一日一日と数え、迫りくる死に怯えながらも奇跡的な救いの訪れを期待せずにはいられないという哀れな様が克明に描かれている。
視点が一方的であるという事実は否めないが、そんな彼に同情しないでいることもまた不可能であろう。
同情に値する死刑囚を引き合いに出して死刑制度の是非を問うのはやや不適切な気がしないでもないが、あくまで文学作品として読んだ場合、この本の心理描写が優れていて、読者の興味を強く引き付けるものであることは間違いないように思う。

既述のとおり、『死刑囚最後の日』は死刑反対の立場で書かれたものなので、いくらか思想的なプロパガンダとしての性格も備えているため、読者が死刑制度に賛成か反対かによって、本書の評価が分かれたとしても何ら不思議ではない。
私自身が死刑制度をどう考えているかはともかくとしても、そもそも私は自らの主張を広めるための手段として芸術を用いるというやり方にあまりいい気がしないほうだ。
とはいっても、ユーゴーが『死刑囚最後の日』を執筆した頃のフランスは、同じ法治国家といえども、死刑判決の下される頻度や合理性、犯罪捜査の緻密さなどにおいて、今日とはまったく状況が異っていたのであろうという点は考慮すべきかもしれない。
ユーゴーの正義感がそのような人命の軽視を許すことができなかったということなのだろうか。

『死刑囚最後の日』は、タイトルから読者が想像し、期待するところの内容を備えた本である。
テーマがテーマだけに大いに議論の余地のある作品ではあるが、その余地をも楽しむことのできる作品として、強くお勧めしたい一冊だ。

『ノートル=ダム・ド・パリ』 ユーゴー(ヴィクトル・ユゴー文学館)

ノートル=ダム・ド・パリ (ヴィクトル・ユゴー文学館)ノートル=ダム・ド・パリ (ヴィクトル・ユゴー文学館)
(2000/11)
ヴィクトル ユゴー

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書名:ノートル=ダム・ド・パリ
著者:ヴィクトル・ユーゴー
訳者:辻 昶、松下 和則
出版社:潮出版社
ページ数:507

おすすめ度:★★★☆☆




ユーゴー初期の長編として知られるのが本作『ノートル=ダム・ド・パリ』だ。
かつては『ノートルダムのせむし男』という邦訳も出されていたようだが、さすがに最近では「せむし」という表現が避けられるようになっていて、『ノートル=ダム・ド・パリ』という原題が一般的になっている。
岩波文庫版が絶版になって久しかったりと、『レ・ミゼラブル』を除けばユーゴーの長編作品は入手しにくいのが現状だが、潮出版社の「ヴィクトル・ユゴー文学館」はいまだに新品での入手が可能なので、ユーゴーに関心のある方にはこのシリーズがお勧めだ。

『ノートル=ダム・ド・パリ』は、その表題のとおり、パリのノートル=ダム大聖堂を舞台にしている。
それにもかかわらず、物語を進行させていく主な要因は人間世界の愛憎である。
主要登場人物の多くが誰かを強く愛していて、彼らはその愛のために・・・。
レ・ミゼラブル』や『九十三年』にもしばしば類似の描写が見られるが、暴徒と化した群集の勢いには読者を圧倒させるものがある。
激しい情念のほとばしる人間ドラマに迫真の臨場感をもたらすあたり、さすがユーゴーと、その手腕に感心してしまわずにはいられない。
ノートルダムの鐘 [DVD]ノートルダムの鐘 [DVD]
(2004/09/03)
アラン・メンケン

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『ノートル=ダム・ド・パリ』は、けっこう前の話になるが『ノートルダムの鐘』というディズニー映画の原作にもなっていて、現在ではおそらくこちらの映画のほうが有名だろう。
原作を知っている人からすれば、あの暗澹たるストーリーをディズニーがどうアニメ化するのかと少々不思議に思うところだが、やはり原作に大きく手を加えたハッピーなラブロマンスに仕上がっている。
幾人かの登場人物とノートルダムという舞台を提供したに過ぎないのではないかと思えてしまうほど、『ノートル=ダム・ド・パリ』はその原形を留めていないので、それぞれをまったくの別物とみなして鑑賞するほうがいいように思われる。

『ノートル=ダム・ド・パリ』にはいかにもユーゴーの筆らしい脱線部分もあるし、ストーリー自体も明るいものではない。
それでも読み終えた読者の心には確実に何かが刻み込まれる。
その「何か」を求めている方は、一度『ノートル=ダム・ド・パリ』を手にしてみてはいかがだろうか。

『九十三年』 ユーゴー(潮文学ライブラリー)

九十三年〈上〉 (潮文学ライブラリー)九十三年〈上〉 (潮文学ライブラリー)
(2005/03)
ヴィクトル ユゴー

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九十三年〈下〉 (潮文学ライブラリー)九十三年〈下〉 (潮文学ライブラリー)
(2005/03)
ヴィクトル ユゴー

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書名:九十三年
著者:ヴィクトル・ユーゴー
訳者:辻 昶
出版社:潮出版社
ページ数:294(上)、381(下)

おすすめ度:★★★☆☆




ユーゴー晩年の長編作品である『九十三年』。
「九十三年」とは1793年を意味していて、これはすなわちロベスピエールが台頭してきた時代であり、フランス革命の混乱が頂点に達していた頃の物語である。
レ・ミゼラブル』にも革命を志す人々が描かれているが、『九十三年』は革命と反革命とのせめぎあいがより鮮明に描かれており、革命をテーマにした作品と言ってもいいだろう。

『九十三年』は、フランス革命の最中にフランス西部のヴァンデ地方で起きたヴァンデの反乱を題材にしている。
ヴァンデの反乱そのものはあまり日本では知られていないように思うが、フランス革命前後のおおよその事情を知っていれば、作品中でなされるユーゴーの説明の意味も把握できるだろうし、共和国派と王党派との間の熾烈な戦いの由来はほぼ察することができよう。
反乱軍と革命政府軍の激しい戦闘、権力を巡って揺れ動くパリ、司令官の心に生じた良心と義務の葛藤・・・大作家としての地位を不動のものとしていたユーゴーの手になる『九十三年』の読みどころは豊富である。
革命もの、戦争ものの好きな読者は必ずや楽しめるはずだ。

革命期を描いた文学作品は少なくないが、たいていの作品はごく一部の登場人物にスポットを当てて、革命はその背景として存在することが多いように思う。
歴史書ではなく文学作品であるから、そうなるのも当然といえば当然のことだろう。
文学作品として書かれた『九十三年』にしても、そういった私的なエピソードから成っている部分が目立つが、私には革命が凄惨をきわめた「九十三年」自体を描き出そうとしたユーゴーの意図が透けて見えるような気がした。
自由と博愛をうたった革命の負の側面を、「九十三年」が流した多くの血を・・・。

生と死が紙一重の戦争状態を多く描いた作品だけに、『九十三年』は決して明るい話ではない。
ユーゴーならではの、読者の心を揺さぶる重みのあるストーリーを求めている方にお勧めしたいと思う。

『エルナニ』 ユーゴー(岩波文庫)

エルナニ (岩波文庫)エルナニ (岩波文庫)
(2009/07/16)
ユゴー

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書名:エルナニ
著者:ヴィクトル・ユーゴー
訳者:稲垣 直樹
出版社:岩波書店
ページ数:308

おすすめ度:★★★★




ユーゴーの戯曲が全集以外で出版されることはあまり多くないのが現状だが、数少ない一つがこの『エルナニ』だ。
二十代後半の頃の作と、ユーゴーがまだ若いときのものだが、『エルナニ』は彼の名を世間に知らしめた出世作でもある。
制作年代こそかけ離れているが、作品から読み取ることのできる思想にユーゴーの代表作である『レ・ミゼラブル』へと通ずるところの垣間見られる作品なので、ユーゴーに関心のある方には特にお勧めだ。

『エルナニ』の舞台はスペインである。
山賊となり、過去になされた非道に対して復讐心を燃やすエルナニだが、ついに敵を追い詰める日がやってくる・・・。
血と短剣に彩られたかのような主人公だが、そんなエルナニには殺伐たるスペインの野がよく似合う。
主人公の剛毅さは、それだけで作品を面白くするものだが、『エルナニ』もその例外ではない。
男気あふれるエルナニに惹かれる読者も多いことだろう。

『エルナニ』は、古典派とロマン派の大論争を引き起こした、いわゆる「エルナニ合戦」で知られる問題作でもある。
しかし、今日の読者が本作を読んでも、我々にはそもそも古典的劇作がいかなるものかという下地ができていないので、解説を読んで納得こそすれ、読書中にはその革新性に気付かない読者が大半だと思う。
そういう意味では、戯曲に関する一教養として読むという側面がおのずと強調されやすい作品かもしれないが、ロマン派ののろしとでも言うべき『エルナニ』には教養的な価値も十分あるはずだ。

ストーリーそのものを楽しむこともできるし、劇作上の作法の差異を考察することもできる。
当然ながら、ユーゴーに対する理解を深めることもできる。
戯曲ということでたいへん読みやすい作品でもあるので、多様な読み方の可能な『エルナニ』が、この文庫化を機に多くの方に読まれることを期待したい。

『レ・ミゼラブル』 ユーゴー(岩波文庫)

レ・ミゼラブル〈1〉 (岩波文庫)レ・ミゼラブル〈1〉 (岩波文庫)
(1987/04/16)
ヴィクトル ユーゴー

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レ・ミゼラブル〈2〉 (岩波文庫)レ・ミゼラブル〈2〉 (岩波文庫)
(1987/04/16)
ヴィクトル ユーゴー

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レ・ミゼラブル〈3〉 (岩波文庫)レ・ミゼラブル〈3〉 (岩波文庫)
(1987/05/18)
ヴィクトル ユーゴー

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レ・ミゼラブル〈4〉 (岩波文庫)レ・ミゼラブル〈4〉 (岩波文庫)
(1987/05/18)
ヴィクトル ユーゴー

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書名:レ・ミゼラブル
著者:ヴィクトル・ユーゴー
訳者:豊島 与志雄
出版社:岩波書店
ページ数:608(一)、611(二)、597(三)、623(四)

おすすめ度:★★★★★




フランスの国民的作家とも言われるヴィクトル・ユーゴー、そんな彼の代表作として知られるのが『レ・ミゼラブル』だ。
精彩に富む個性的な人物が複数登場し、彼らの織り成す人間模様は歴史とも絡み合い・・・最後まで目を離せない波瀾に満ちたストーリー展開に読者は釘付けとなるだろう。
感動的で印象的な場面も多く、非常に読み応えのある傑作なので、一度は全訳を読んでいただきたい作品である。

すでに確固たる名声を築いている『レ・ミゼラブル』の素晴らしさを伝えるのに、一介の読者に過ぎぬ私があまり多くを語る必要はないだろう。
私が何を言うにしても、それが賛辞であることに変わりはないのだから。
作品全体を貫いている人間性の称揚こそが多くの読者に受け入れられるゆえんなのかもしれないと感じたと、こう述べるだけで十分ではなかろうか。
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(2009/09/02)
リーアム・ニーソン、ジェフリー・ラッシュ 他

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(2002/04/24)
ジェラール・ドパルデュー、ジョン・マルコヴィッチ 他

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『レ・ミゼラブル』は非常に有名な作品であるうえに、筋書きがドラマティックだからでもあろうが、ハリウッドや母国フランスで何度か映画化されている。
右の二点はその中でも比較的よく知られているものだと思う。
ジョン・マルコヴィッチがジャベールを演じた右側のものは、フランス映画なのでレンタルなどで見つけるのが難しいかもしれないが、約三時間に及ぶ作品だけに見応えがある。
『レ・ミゼラブル』のように原作が名場面の多い長編作品だと、それを二時間程度の映画にしたのでは物足りなさを感じてしまうことが多いが、原作に忠実に作られた上述の映画はとても出来がいいように思われた。

『レ・ミゼラブル』に脱線が多いことはよく指摘されているし、しばしば登場人物の言動にも難癖が付けられることがある。
それにもかかわらず、いまだに数多くの読者に感動を与え続けているのが『レ・ミゼラブル』であり、まさに世界的名作という名に値する。
ユーゴーの描いた世界文学屈指の人間ドラマを、ぜひ一人でも多くの方にお読みいただきたいと思う。

『トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇』 トルストイ(岩波文庫)

トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇 (岩波文庫)トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇 (岩波文庫)
(1965/01)
トルストイ

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書名:トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇
著者:レフ・トルストイ
訳者:中村 白葉
出版社:岩波書店
ページ数:189

おすすめ度:★★★★




同じく岩波文庫から出されている『トルストイ民話集 イワンのばか 他八篇』の姉妹編とでも呼ぶべき作品がこの『トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇』である。
二冊の本の作風に大きな違いはないので、『イワンのばか』を楽しまれた読者はこちらも同様に楽しめるに違いない。
イワンのばか』を読んでいない方にも、読みやすい民話を数多く残している文豪トルストイの一面をぜひ知っていただきたいと思う。

『人はなんで生きるか』を含めた四編は、いずれも道徳的な生活を促す内容のものだ。
人としてなすべきなのは自らになされた悪に対抗することではなく、悪にも善で立ち向かうべきであるという思想を汲み取ることは、そう難しいことではないだろう。
その通りに実践していたのでは極度のお人よしとなってしまうため、トルストイが現実的な生き方を提示しているとは言いがたいが、善意の描写はやはり読んでいて気持ちの良いものだ。
人は何で生きるか (トルストイの散歩道)人は何で生きるか (トルストイの散歩道)
(2006/05)
レフ トルストイ

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右はその一例だが、表題作の『人はなんで生きるか』をはじめ、本書に収録されている『愛のあるところに神あり』、『二老人』はあすなろ書房から児童向けの単行本も出されている。
幅広い年齢層が楽しむことのできるのが民話の長所なので、子供用に出版されているのも当然といえば当然のことだが、このようなスタイルでの出版はあえて大衆向けの作品を書いたトルストイの意向を十二分に汲んだものと言えるだろう。
子供の頃に親しんだ本は、長く記憶に残るもの。
これらの名作もプレゼントに悪くないかもしれない。

『人はなんで生きるか』に収録されている五編の作品も、民話の常としてその結末はおおよそ想像がつくものが多いが、それにもかかわらずやはり読者は心温まる思いをすることができる。
心理描写や構成などにトルストイの手腕が発揮された小品群に、ぜひ触れてみていただきたいと思う。

『イワン・イリッチの死』 トルストイ(岩波文庫)

イワン・イリッチの死 (岩波文庫)イワン・イリッチの死 (岩波文庫)
(1973/01)
トルストイ

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書名:イワン・イリッチの死
著者:レフ・トルストイ
訳者:米川 正夫
出版社:岩波書店
ページ数:105

おすすめ度:★★★★




トルストイの中編作品として知られ、短いながらも読み応えのある傑作として人気の本が、この『イワン・イリッチの死』だ。
トルストイが「回心」した後の作品なので、いくらか宗教臭さが感じられないでもないが、さほど気にならないように思う。
一日で読める文章量にもかかわらず、トルストイの魅力を存分に伝えている作品としてお勧めだ。

『イワン・イリッチの死』は、イワン・イリッチの知人たちが彼の訃報に接するところから始まり、その後イワンの生涯と、死に至るまでの模様が語られるという作品だ。
苦しい闘病生活、家族とのやり取り、迫りくる死に対する苛立ち・・・印象的な場面の連続で、つい一気に読み通してしまう作品である。

トルストイは、死に瀕した登場人物たちによる数々の名場面を描いているが、『イワン・イリッチの死』もその一つに数えられるだろう。
死の瞬間というのが、人が最も死後の世界と肉薄し、それだけ必然的に人が最も神と接近する瞬間の一つであることは間違いない。
それを思えば、「回心」後のトルストイが平凡な官吏の死を執拗なまでに描ききることになった理由も首肯できるのではなかろうか。
イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)
(2006/10/12)
トルストイ

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『イワン・イリッチの死』は、『クロイツェル・ソナタ』の併録された新訳が光文社の古典新訳文庫から出されたところだ。
個人的には、米川氏の翻訳は読み慣れているしとても好きなのだが、活字のサイズや文章の読みやすさを考えれば、こちらのほうが多くの読者に受け入れられやすいのかもしれない。
いずれの訳書にしても、味読に値する『イワン・イリッチの死』をぜひ堪能していただきたいと思う。

『少年時代』 トルストイ(岩波文庫)

少年時代 (岩波文庫)少年時代 (岩波文庫)
(1971/06/16)
トルストイ

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書名:少年時代
著者:レフ・トルストイ
訳者:藤沼 貴
出版社:岩波書店
ページ数:183

おすすめ度:★★★★




トルストイの自伝風小説の第二作目がこの『少年時代』である。
幼年時代』の続編であり、内容的にも密接なつながりがあるので、順序としては先に『幼年時代』を読んでおくほうがベターだろう。
読みやすさや平易な文体は『幼年時代』と同様なので、気軽に手にとっていただける本として幅広い読者にお勧めしたい。

幼年時代』の頃と比べると、読者は『少年時代』における主人公の少年、その少年の心情をトルストイ本人ととらえていいように思うが、その目線がいくらか変わっていることに気付かされるはずだ。
具体的に何が変わったかというと、自意識の強まりや異性への意識だろうか。
主人公の過ごした環境自体にも大きな変化があるので、ストーリー性も加味されたたいへん楽しく読める自伝風の作品となっている。

自伝といえば、ルソーやゲーテも優れた作品を残しているが、自伝の出来ばえは作者の精神性の深さのみならず、正直さにも大いに左右されるものと思う。
当時まだ無名の作家だったということもあってか、主人公の名前や家族構成など、主要な点は変えてはいるが、自らの精神のあり方を如実に述べる真摯さがトルストイに欠けているわけではなく、それがこの『少年時代』の魅力の一つとなっている。
おそらくそういう廉直を好む姿勢が、彼の後年の思想へとつながっていくのだろう。
幼年時代幼年時代
(2009/01/24)
レフ・ニコラエヴィッチ・トルストイ

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少年時代少年時代
(2009/01/24)
レフ・ニコラエヴィッチ・トルストイ

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『少年時代』を含む、岩波文庫から出されていたトルストイの自伝小説三点は、現在いずれも新品があまり出回っていないようだ。
自伝的作品としての出来がいいだけでなく、トルストイという作家に興味のある読者は決して少なくないだろうことを思うと、少々残念な気がする。
私自身は存在を知っているだけで読んだことはないのだが、右に示すように講談社から単行本で新訳が出ているようなので、そちらで読むのもいいだろう。

『幼年時代』 トルストイ(岩波文庫)

幼年時代 (岩波文庫)幼年時代 (岩波文庫)
(1968/05/16)
トルストイ

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書名:幼年時代
著者:レフ・トルストイ
訳者:藤沼 貴
出版社:岩波書店
ページ数:208

おすすめ度:★★★★




トルストイが自らの幼少期を描いた自伝的な作品がこの『幼年時代』である。
『幼年時代』は二十代のトルストイが書いた処女作としても知られ、作品中に『アンナ・カレーニナ』や『戦争と平和』など、後の大作の萌芽を見出すこともできるだろう。
それらの大作と比べてしまえば、作品の奥行きの乏しさやスケールの小ささは否めないが、小難しいところのないとても読みやすい文章なので、多くの読者が楽しめる本であるように思う。

『幼年時代』の主人公には別の名前が与えられているうえに、伝記的要素との食い違いも多いが、おそらくその主人公の精神状態はトルストイ本人のものに近いと考えて問題ないだろう。
トルストイは、ツルゲーネフ同様、貴族の息子として生まれた。
『幼年時代』で描かれるのも、使用人にかしずかれるのが当たり前の、爵位を持った人々が出入りする貴族の館である。
トルストイが後の作品において精彩に富んだ貴族社会を描き出せたのは、すべてを空想に頼らず、上流社会に身を置いていた自身の見聞に頼るところが大きかったからに違いない。

物質的には何の苦労もない裕福な暮らしの中、幼き主人公に印象付けられた記憶が次々と語られていく中で、幼きトルストイの姿も浮き彫りとなっていく。
素直ながら非常に内気な子供であった様が丹念に描かれているので、ひょっとすると主人公の歯切れの悪さにもどかしい思いをする読者もいるかもしれない。
しかしこの内気さゆえに、トルストイの視線が人間の外面的な部分より内面的な部分へと傾斜するようになり、後々人間観察や心理描写における卓越した才能を発揮することになるのだろうか。

いかにトルストイが繊細で多感な子供だったとはいえ、誰もが経てきたもの、それが幼年時代なのだから、『幼年時代』はある意味で非常に普遍的なテーマの作品でもある。
異国の地に生まれた見ず知らずのトルストイの幼年時代に、なぜか懐かしさを感じてしまうのは私だけではないはずだ。
『幼年時代』が気に入られた読者は、ぜひその続編である『少年時代』、『青年時代』と順に読み進めていただきたい。

『人生論』 トルストイ(新潮文庫)

人生論 (新潮文庫)人生論 (新潮文庫)
(1975)
トルストイ

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書名:人生論
著者:レフ・トルストイ
訳者:原 卓也
出版社:新潮社
ページ数:220

おすすめ度:★★☆☆☆




トルストイが人生、生命、幸福などに関する自らの思想を述べたものがこの『人生論』だ。
そのタイトルからもわかることだが、これは小説ではなく論文調で書かれたものなので、誰もがすらすら読める本というわけではないだろう。
キリスト教への「回心」後の作品のため、必ずしもロシア正教の正統教義に則ってはいないとはいえ、全体に宗教色の強い論旨となっている。

作家として順調なキャリアを築いていたトルストイは、『アンナ・カレーニナ』の発表後、徐々に道徳・宗教へと傾倒していき、その思想に従った小説、論文、民話を執筆するようになるが、それらの論文の中で最も普及しているものがこの『人生論』だろう。
そういう意味では、後期トルストイの思想に関心のある方には必読の書であると言える。
復活』や『クロイツェル・ソナタ』と合わせて読むと、後期トルストイの考えや傾向性を把握することができるに違いない。

トルストイが独自の思想を述べた『人生論』だが、必ずしも思想書として優れているかというと、やや疑問を持たざるをえない。
論を進めるに当たって、前提条件に無理があったり、いささか強引な結論付けがあるように私には感じられたのだ。
ただ、思想書の評価は、読者がその主張に共感できるかどうか、この点に左右される部分が非常に大きいように思うので、結局は私がトルストイの思想に共感できない部分が多いと述べているに過ぎないのかもしれないが・・・。
当たり前のことではあるが、『人生論』の評価は読者によりけりになるものと思う。

『人生論』を読み終えて、トルストイは優れた小説家であって優れた哲学者ではない、私はそういう印象を受けてしまった。
とはいえ、あくまで文豪トルストイの人生観や思想を知る上では非常に興味深い一冊であることは疑いようもない。
そういうわけで、トルストイの後期作品に親しんだ読者にお勧めしたい本だ。

『ガルガンチュアとパンタグリュエル』 ラブレー(ちくま文庫)

ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫)ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫)
(2005/01)
フランソワ ラブレー

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パンタグリュエル―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈2〉 (ちくま文庫)パンタグリュエル―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈2〉 (ちくま文庫)
(2006/02)
フランソワ ラブレー

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第三の書―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈3〉 (ちくま文庫)第三の書―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈3〉 (ちくま文庫)
(2007/09/10)
フランソワ ラブレー

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ガルガンチュアとパンタグリュエル〈4〉第四の書 (ちくま文庫)ガルガンチュアとパンタグリュエル〈4〉第四の書 (ちくま文庫)
(2009/11/10)
フランソワ ラブレー

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ガルガンチュアとパンタグリュエル 5 第五の書 (ちくま文庫)ガルガンチュアとパンタグリュエル 5 第五の書 (ちくま文庫)
(2012/05/09)
フランソワ ラブレー

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書名:ガルガンチュアとパンタグリュエル
著者:フランソワ・ラブレー
訳者:宮下志朗
出版社:筑摩書房
ページ数:508(一)、489(二)、597(三)、654(四)、535(五)

おすすめ度:★★★★




フランス・ルネサンス期の巨人ラブレーの代表作として知られるのが本書『ガルガンチュアとパンタグリュエル』だ。
下品な冗談を散りばめた作品であるにもかかわらず、単なる滑稽譚にとどまらない本書は、社会や宗教に対する風刺性・批判性が強く、危険な思想をはらんだ本であるとして禁書になるという栄誉を授けられた作品である。
長大な作品ゆえに、また、確固たるストーリーが整然と展開していく作品でもないために、万人受けは望めないものと思うが、フランス文学に興味のある人であればラブレーを読んで損はないだろう。

『ガルガンチュアとパンタグリュエル』は、ざっくりと言ってしまえばガルガンチュアとパンタグリュエルが数々の冒険や議論に明け暮れるという物語なのだが、作品中に糞尿に関する描写や性的な表現がとても多いという、世にもまれな下品な古典である。
また、前後の記述に整合性の取れていないところも随所に見られるため、一般に荒唐無稽と評されることが多いようだ。
しかし、その出鱈目さを楽しめる読者の目には、唯一無二の傑作と映ることだろう。
ガルガンチュアとパンタグリュエルがいずれも巨人であると告げるだけでも、そういった読者の好奇心をくすぐるには十分すぎるはずだ。
痴愚神礼讃 (中公クラシックス)痴愚神礼讃 (中公クラシックス)
(2006/09)
エラスムス

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『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の読者にお勧めの本といえば、エラスムスの『痴愚神礼讃』だ。
ラブレー自身がエラスムスを師と仰いでいたわけでもあるし、同じルネサンス期の人文主義者として知られるエラスムスとラブレーは切っても切れない間柄であろう。
仮に二人の関係性が存在しなかったとしても、権威に対する人間性の挑戦とでも呼ぶべき著作は一読に値するはずだ。

これまで『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の翻訳といえば、渡辺一夫氏の岩波文庫版が一般的だった。
困難を極めるであろうラブレーの完訳を成し遂げたという偉業は、より読みやすい新訳が出されたことで消えてなくなるものではないし、この度の宮下志朗氏の訳業にも資するところが多かったことだろう。
『ガルガンチュアとパンタグリュエル』は、どこが何に対する風刺なのかわかりにくいところの多い複雑な作品だが、宮下氏による丁寧な訳注と解説のおかげで理解に苦しむことはないはずだ。
読みやすい新訳が出たのを機に、冗長ながらも薬味の効いたラブレーの作品を、一人でも多くの読者に味わっていただければと思う。

『寓話』 ラ・フォンテーヌ(岩波文庫)

寓話〈上〉 (岩波文庫)寓話〈上〉 (岩波文庫)
(1972/03/16)
ラ・フォンテーヌ

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寓話〈下〉 (岩波文庫)寓話〈下〉 (岩波文庫)
(1972/04/17)
ラ・フォンテーヌ

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書名:寓話
著者:ラ・フォンテーヌ
訳者:今野 一雄
出版社:岩波書店
ページ数:327(上)、388(下)

おすすめ度:★★★★




フランス人の心のふるさとと呼ぶにふさわしい文学作品があるとすれば、それはこのラ・フォンテーヌの『寓話』だろう。
『寓話』は、主に『イソップ寓話集』を下敷きにして詩の形で書かれた寓話集で、どれも短く平易なものなのでたいへん読みやすく、肩の凝らないような軽めの読み物を求めている方には最適の本だと思う。
また、後世のフランス作家が『寓話』の中のエピソードに言及することも多いので、フランス文学を読む上で基礎となる古典作品とも言えるだろうか。

『寓話』に登場するキャラクターは非常に豊富だ。
人間、動物、鳥、虫などはもちろんのこと、擬人化された太陽なども登場する。
単に話の筋を追っていくだけでも楽しめる本ではあるが、それだけではなく、それぞれの話が何を意味しているのか、ラ・フォンテーヌはそれぞれの寓話にどのような教訓を潜ませたのか、それを考えながら読むという大人の読み方にも耐えうる、味わい深い作品群である。

洋の東西が変われば、寓話に頻出する動物やその性格付けが変わっても、決して不思議ではないだろう。
そんな中、日本の昔話で登場する動物が、我々が抱いているイメージそのままに『寓話』に登場していたりする。
かと思いきや、日本の昔話ではあまり登場機会のない虫や動物が重要な役回りを演じていたりもする。
それらを比較してみるのも面白い読み方かもしれない。
完訳 ペロー童話集 (岩波文庫)完訳 ペロー童話集 (岩波文庫)
(1982/07/16)
シャルル ペロー

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『寓話』を楽しまれた読者には、『完訳 ペロー童話集』がお勧めだ。
こちらも大人から子供まで楽しめる作品で、ラ・フォンテーヌと同時代のフランス人であるペローによるものだ。
文学はある程度深刻で難しいテーマを扱うべきであると考えておられる方には不向きかもしれないが、「赤ずきんちゃん」や「シンデレラ」、「長靴をはいた猫」といった日本でもよく知られた作品を多数収録している童話集なので、文学に楽しみを求める読者を裏切ることはないはずだ。

『夢の本』 ボルヘス(国書刊行会)

夢の本夢の本
(1992/10)
J・L・ボルヘス

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書名:夢の本
著者:ホルヘ・ルイス・ボルヘス
訳者:堀内 研二
出版社:国書刊行会
ページ数:277

おすすめ度:★★★☆☆




タイトルこそ似ているが『砂の本』とは似ても似つかない内容である、ボルヘス晩年の作『夢の本』。
この表題は、「夢のような」本という意味ではなく、ボルヘスが多大な興味を示し続けた無数の「夢」を世界中から集めたアンソロジーということであり、まさしく『夢の本』なのである。
何しろ取り扱われる夢の数が膨大で、過去にここまで古今東西の夢を集めた本は存在しなかったに違いない。
そういう意味では「夢のような」本というニュアンスもそう的外れではないのだろうか。

『夢の本』に収められている「夢」は、ギルガメシュから20世紀のものにまで至り、その数は優に百を超えている。
ボルヘスが度々言及する夢といえば、私は真っ先にコールリッジの『クビライ汗』にまつわる夢を思い浮かべるのだが、当然ながらその夢もエピソードの一つとして収録されている。
他にも聖書から取ったものもあれば、荘子がもれることもなく、ボルヘス自身の夢も入っている。
聖書からの夢が多すぎるような気がしないでもないが、いずれも短いエピソードなのでたいへん読みやすく、布団に入ってから寝る前に、というより夢を見る前にも、気軽に読むことができるはずだ。
夢判断 上 (新潮文庫 フ 7-1)夢判断 上 (新潮文庫 フ 7-1)
(1969/11)
フロイト

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夢判断 下 (新潮文庫 フ 7-2)夢判断 下 (新潮文庫 フ 7-2)
(1969/11)
フロイト

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夢に関する著作でお勧めといえば、やはりフロイトの『夢判断』だろう。
心理学や精神分析の基礎知識がなくても読める、いやむしろ基礎知識を得るための入門書としても読むことができるので、夢に興味のある方はぜひ読んでみていただきたい。
とはいっても、日常的でいて謎に満ちた「夢」に完全に無関心でいられる人はめったにいないのかもしれないが・・・。

ボルヘスの著作を何冊か読んでいるうちに夢に対するボルヘスの強い憧れを感じ取り、その憧れを共有した読者は決して少なくないように思う。
『夢の本』はそのような方に特にお勧めしたい。

『論議』 ボルヘス(国書刊行会)

論議 (ボルヘス・コレクション)論議 (ボルヘス・コレクション)
(2001/01)
ホルヘ・ルイス ボルヘス

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書名:論議
著者:ホルヘ・ルイス・ボルヘス
訳者:牛島 信明
出版社:国書刊行会
ページ数:307

おすすめ度:★★★☆☆




ボルヘスが比較的若い頃のエッセイを中心に、20編をまとめたものがこの『論議』である。
ボルヘス初期の作品であるにもかかわらず、アルゼンチンの詩や神学をテーマにしたものなど、晩年の講演集である『七つの夜』でも言及のあるテーマが少なからず見出されるので、ボルヘス後期の作品と合わせて読めば、長い間にわたってボルヘスという作家の根底に横たわっていた思想やイメージを読み解くことが可能となるだろう。
哲学・思想に関する記述も少なくないので、いくらか難解に感じられる読者もいるかもしれないが、ボルヘスに興味がある人にはお勧めだ。

主として文学を論じた20のエッセイから成るのがこの『論議』だが、いくつかそのテーマが重複しているものもある。
具体的には、ホイットマン、フロベール、アキレスと亀のパラドックスなどがそうである。
非常に高く評価していたホイットマンに関する言及はボルヘスの作品中に散見することができるし、ボルヘスの作風を思えば彼がパラドックスを嫌うわけがないというのもうなずけるのだが、これまでフロベールとその作品に対しての評言が多いという印象は持っていなかったので、少々新鮮な気持ちでそれを読むことができた。

いつもながら原文の参照などしていないし、あくまで直感的な判断でしかないのだが、本書『論議』の文体は、ボルヘスの書くものにしてはやや生硬であるような感じを受けた。
ひょっとすると、それは若き日のボルヘスと老年のボルヘスの書き方の差異なのかもしれない。
若い頃の作品に冷淡な態度を取りがちなのがボルヘスであるというのも、このことが一因なのだろうか。

ボルヘスのエッセイ集といえば、単なる評論の域を超え出た、非常にボルヘスらしい創造力に満ちた一冊である『続審問』が最もお勧めだが、初期の思想を読み取ることのできるこの『論議』もたいへんに興味深い本ではある。
とはいえ、『伝奇集』に始まる一連の短編小説に魅了された読者には『続審問』の方をお勧めしたい。
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