『説きふせられて』 ジェーン・オースティン(岩波文庫)

説きふせられて (岩波文庫)説きふせられて (岩波文庫)
(1998/10/16)
ジェーン オースティン

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書名:説きふせられて
著者:ジェーン・オースティン
訳者:富田 彬
出版社:岩波書店
ページ数:409

おすすめ度:★★★★




病身だったこともあり、決して多作な作家ではなかったオースティンの最後の作品が、この『説きふせられて』だ。
日本語訳では『説得』の方が一般的なようで、原題が名詞形の"Persuasion"であることを考えれば、『説得』の方が素直な訳題と言えるかもしれない。
いずれのタイトルを採用するにしても、ゆったりとした展開の中にペーソスすら漂う作品である『説きふせられて』が読み応えのある作品であることは疑いを入れないだろう。

オースティンの他の作品同様、『説きふせられて』もストーリーの争点は若き令嬢の結婚問題、ひいては財産問題である。
自分の気持ちだけではなく、周囲からの「説得」も考慮しながら自らの恋愛について考え、さらには結婚を決めていくという女主人公の姿は、時代や国が違っても、今日の日本人にも共感しやすいテーマなのではなかろうか。
テーマの息の長さだけではなく、女主人公の情緒を簡潔かつ迫真性を持って描き出すオースティンの筆力は本作においても健在で、あらすじだけを読めばそれほど強い魅力を感じないはずの作品世界に、読者はぐいぐいと引き込まれてしまうはずだ。
説得 (ちくま文庫)説得 (ちくま文庫)
(2008/11/10)
ジェイン オースティン

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説得 (中公文庫)説得 (中公文庫)
(2008/09)
ジェイン オースティン

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『説きふせられて』は、右に示すようにちくま文庫や中公文庫からも『説得』との訳題で出版されている。
翻訳の時代が古いということもあり、富田訳の岩波文庫は訳文がやや生硬なものとなっており、オースティンの柔らかな作風を十分に再現していないとの批判も少なくないようだ。
私自身が読み比べてみたわけではないので偉そうなことは言えないが、ひょっとすると右の訳書の方が読みやすいのかもしれない。

オースティンといえば、『自負と偏見』や『エマ』が傑作として高い評価を受けているが、『説きふせられて』にも独特の味わいがある。
オースティンのファンであれば必読の一冊であるし、入手が容易なオースティンの長編作品の中では比較的短い方なので、『説きふせられて』からオースティンを始めてみるのも悪くないように思う。
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『エマ』 ジェーン・オースティン(中公文庫)

エマ (中公文庫)エマ (中公文庫)
(2006/02)
ジェイン オースティン

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書名:エマ
著者:ジェーン・オースティン
訳者:阿部 知二
出版社:中央公論新社
ページ数:749

おすすめ度:★★★★★




『高慢と偏見』もしくは『自負と偏見』と並び称されるジェーン・オースティンの代表作であり、最高傑作であるとの呼び声も高いのが本書『エマ』である。
作風の幅の狭いオースティンだけに、どの作品を読んでも非常にオースティンらしい雰囲気に満ちているのは事実だが、オースティンの小説のどれか一つだけをお勧めするとすれば、私は『自負と偏見』か『エマ』かのどちらかを選ぶことだろう。
読みやすいことこの上なく、さらにストーリーが面白いとあっては、お勧めできない理由が見当たらない、それが『エマ』だ。

本書の女主人公エマは、田舎で愛する父と暮らす、美しくもいくらか気丈な令嬢である。
今日の日本社会と比べて因習と世間体の支配がはるかに強かったはずのイギリスの片田舎において、自分に素直に生きていこうとする彼女の姿は、その外見に劣らずたいへん魅力的である。
女流作家だからこそ描けたエマの細やかな心情の揺れ動きは非常に読みごたえがあり、700ページを超える長編作品ながら、読者に飽きを感じさせることはないはずだ。

オースティンの小説には、深刻な不和や卑劣な裏切りといったような、人間社会の負の側面が描かれていない。
登場人物たちが何かしらのことに対して嫌悪の情を抱くことはあっても、それは憎悪というほどの強さのものではなく、登場人物はみな平和な空気を呼吸して伸び伸びと生活している。
そういう理想的な偏りに接していると、私はどうしても筆者の性格の素晴らしさがにじみ出ているような気がしてしまう。
作家として高い評価を受けているオースティンだが、一人の人間としてもとても素敵な人だったのではないかと感じてしまうのは私だけだろうか。

『エマ』は、中公文庫の他に、岩波やちくまからも上下二冊組の文庫版が出されており、オースティンの作品の中では『自負と偏見』に次いで入手しやすい作品となっている。
オースティンの才能が存分に発揮された『エマ』、オースティンを初めて読む方にもお勧めできる一冊だ。

『自負と偏見』 ジェーン・オースティン(新潮文庫)

自負と偏見 (新潮文庫)自負と偏見 (新潮文庫)
(1997/08)
J. オースティン

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書名:自負と偏見
著者:ジェーン・オースティン
訳者:中野 好夫
出版社:新潮社
ページ数:606

おすすめ度:★★★★★




イギリスを、いや世界を代表する女流作家であるジェーン・オースティンの代表作が、この『自負と偏見』である。
邦訳は『高慢と偏見』と題されることが一般的で、中野訳は『自負と偏見』を採用しているが、内容は同じものである。
漱石が絶賛したことでも知られるオースティンの作品は、難解な点がまったくないので非常に読みやすく、ユーモアと情緒に富んだ作風がストーリーの面白さを引き立てており、これからも幅広い読者に受け入れられ続けるに違いない。

イギリスの田舎に暮らす中・上流階級の娘たちの最大の関心事といえば、やはり恋愛、そして結婚だろう。
ある日、両親と共に暮らす五人姉妹の近所に、裕福な独身青年が現れるという「大事件」が起こり・・・。
育ちの良い女性の視点からとらえられた田舎の生活は美しさ、愛らしさに満ちていて、とても気持ちよく読み進められる作品といえるだろう。
プライドと偏見 【プレミアム・ベスト・コレクション1800】 [DVD]プライドと偏見 【プレミアム・ベスト・コレクション1800】 [DVD]
(2009/07/08)
ドナルド・サザーランド、マシュー・マクファディン 他

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本書の表題は『高慢と偏見』とされるのが一般的だが、要は原題の"pride"をどのように訳出するかにかかっている。
一読した感じで「高慢」という訳語は少々強すぎるのではないかと感じられる方もいるだろうし、事実、キーラ・ナイトレイを主演に迎えた右の映画化作品では、その邦題が『プライドと偏見』とされてもいる。
これまでは"pride"が「高慢」だったり「自負」だったりと訳されてきていたが、「プライド」という片仮名語の普及した今日では、ひょっとすると『プライドと偏見』が最もしっくりくるのかもしれない。
それはそうと、比較的原作に忠実な映画『プライドと偏見』は、演出に凝りすぎることもなく、それでいて衣装や風景などの映像はたいへん美しく、『自負と偏見』の読者には自信を持ってお勧めできる映画だ。

岩波文庫の『高慢と偏見』は、上下二分冊である上に、訳文の評判があまり芳しくないらしい。
文章に対する好みは分かれるところかもしれないが、中野好夫氏による『自負と偏見』のほうは、一冊になっているだけに手頃であることは間違いない。
モームが「世界の十大小説」の一つに選んだ『自負と偏見』、ぜひ読んでみていただきたい。

『少年の日の思い出 ヘッセ青春小説集』 ヘルマン・ヘッセ(草思社)

少年の日の思い出 ヘッセ青春小説集少年の日の思い出 ヘッセ青春小説集
(2010/12/21)
ヘルマン・ヘッセ

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書名:少年の日の思い出 ヘッセ青春小説集
著者:ヘルマン・ヘッセ
訳者:岡田朝雄
出版社:草思社
ページ数:200

おすすめ度:★★★★




車輪の下』に代表される、ヘッセの若い頃の作品4点を収録したのが本書『少年の日の思い出 ヘッセ青春小説集』だ。
表題作の他に、『ラテン語学校生』、『大旋風』、『美しきかな青春』の3編が収められており、特に『美しきかな青春』はヘッセの代表的な中編作品でもあるので、ラインナップは充実しているといえるだろう。
副題にもあるようにヘッセの青春小説を集めたということで、情感豊かな主人公は多くの読者の共感を得るに違いない。
いずれの作品からも後期のヘッセに見られるような難解な思想性は感じられず、たいへん読みやすいのが特徴でもある。

『少年の日の思い出』は、蝶の採集に夢中になっていた少年のエピソードである。
10ページそこそこの小品ながら、読む者の胸を打つ力は決して小さくはないはずだ。
ヘッセの蝶にまつわる散文・詩作品を集めた『』に収録されている『クジャクヤママユ』を改稿したものが『少年の日の思い出』らしいが、その『』のほうはずいぶん前から廃刊とのことなので、多少の異同はあるにせよ、本書によって再び日の目を見た作品といえるだろう。
青春は美わし (新潮文庫)青春は美わし (新潮文庫)
(1954/10)
ヘッセ

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併録されている作品のうち、『美しきかな青春』は新潮文庫でいうところの『青春は美わし』と訳者は違えど同じ作品であり、こちらの文庫版にはさらに『ラテン語学校生』も訳出されているため、『少年の日の思い出』とたいへん似通った一冊となっている。
肝心の『少年の日の思い出』こそ載っていないが、いっそう手頃な形でヘッセの青春小説を味わいたい方にはこちらもお勧めだ。

『少年の日の思い出』は、長きにわたって複数の中学の国語教科書に採用されていて、それが現在でも続いているらしい。
私自身は不幸にして『少年の日の思い出』を採用していない教科書で学んだらしく、『少年の日の思い出』にまつわる、それこそ少年の日の思い出は一つも持ち合わせていないのだが、読者の中には懐かしい気持ちを胸にしながら読まれる方もおられるのではなかろうか。
仮に『少年の日の思い出』を知らずとも、ヘッセの描く甘く、そしてほろ苦い青春の一ページは、読者の追憶を誘ってやまないことだろう。

『審判の夢/ベポゥ』 バイロン(山口書店)

審判の夢審判の夢
(1984/07)
バイロン

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書名:審判の夢 他一篇
著者:ジョージ・ゴードン・バイロン
訳者:東中 稜代
出版社:山口書店
ページ数:163

おすすめ度:★★★☆☆




イギリスを追われるようにして大陸に渡ったバイロンは、自らの不遇をかこつかのように、当初は『マンフレッド』のように人間の内面世界を深く掘り下げていく作品を執筆していた。
それはそれで非常に読み応えのある作品ではあるのだが、元来内向的な人間とは言い難い、どちらかといえば社交的な性質であったバイロンは、不正や欺瞞を明るく笑い飛ばす風刺の力にもたいへん優れており、そういった才能を遺憾なく発揮した詩作品が、この『審判の夢』と『ベポゥ』だ。
両編ともに『ドン・ジュアン』をも生み出すこととなる風刺的な作品に格好の詩形によって書かれており、晩年のバイロンを象徴する作風に仕上がっているので、『ドン・ジュアン』の読者はもちろん、『ドン・ジュアン』は長すぎて手が出しにくいという方にもお勧めの作品となっている。

『審判の夢』は、時の桂冠詩人サウジーの『ある審判の夢』に対抗して書かれたもので、そのタイトルも定冠詞か不定冠詞か、すなわち"the"か"a"かの違いしかないという、露骨な対抗姿勢の窺えるものとなっている。
両作品の比較や、決闘にもなりかねなかった二人の争いの経緯については解説に詳しいので、サウジーのことはあまり知らずとも十分楽しめることだろう。

『ベポゥ』のほうはというと、『審判の夢』が明確な筋を追っていく詩であるのに対し、こちらは脱線に次ぐ脱線で、物語の筋自体よりも語り手のうんちくの方に興味をそそられる作品だ。
その脱線に満ちた構成は『ドン・ジュアン』の縮約版を見ているかのようで、バイロンの代表的な作風を感じ取ることのできる詩作品として、もっと多くの人に読まれてしかるべき作品だと思う。

この『審判の夢/ベポゥ』、バイロンに関心のある読者であれば間違いなく楽しめるはずの本であるが、流通量が極端に少ないときている。
アマゾンでは中古品がごくわずかに販売されているにすぎないし、それがまた文章量からすると非常に高額となっていて、気軽に購入できる本ではないというのが現状だ。
マンフレッド』に代表されるようなメランコリックな性格とは異なった、バイロンの風刺的で陽気な側面を感じ取ることのできる手頃でいて完成度の高い作品であるだけに、『審判の夢』や『ベポゥ』が普及しにくい環境になっていることに対してとても惜しい気持ちがする。
近年、新訳のみならず既訳の作品を出版することの多い岩波文庫の一冊として出されることに期待したい。

『カイン』 バイロン(岩波文庫)

カイン (岩波文庫)カイン (岩波文庫)
(1960/03/25)
バイロン

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書名:カイン
著者:ジョージ・ゴードン・バイロン
訳者:島田 謹二
出版社:岩波書店
ページ数:185

おすすめ度:★★★★




『カイン』は、旧約聖書において人類最初の殺人者とされているカインを題材にした劇詩である。
バイロン後期の、とはいってもギリシアで若くして客死したバイロンにとって、それは三十代前半を指しているのだが、いずれにしても、『カイン』はバイロンの作風が思想性・批判性を強めていた時期の作品だ。
人類の草創期を舞台に選んでいるとはいえ、理性的な反省を重ね、自らの内面世界における充足を求め続けるカインは、マンフレッドと並び称することができるほど、きわめて近代的な性格の主人公といえるだろう。
事実、『カイン』は『マンフレッド』の姉妹編と呼んでもいいほどに互いに複数の共通点を持つので、『マンフレッド』と、ひいてはゲーテの『ファウスト』と合わせて読むのも非常に興味深いはずだ。

知への欲求を胸に秘め、アダムらと暮らしているカインのもとへ、神に反旗を翻した精霊、ルシファーが現れる。
絶対的な権力者である神への恭順を卑屈とみなすカインは、蛇のような存在、ルシファーと交わることで、定められた運命に向かって着実に歩みを進めていく・・・。
しきりに善悪を論じ、親の行動の責を負わされることに不満の意を表し、「死」について語るカイン。
その悲惨な結末はわかっていても、カインの言動は読者を引き付けてやまないことだろう。
旧約聖書 創世記 (岩波文庫)旧約聖書 創世記 (岩波文庫)
(1967/01)
関根 正雄

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カインの弟殺しは、原典である旧約聖書以外においても頻繁に言及されるエピソードなので、日本人の間にもすでにある程度はおなじみであろう。
しかし、いざ『創世記』を紐解いてみると、さほど重要な挿話ではないかのように、カインに関する記述はずいぶんとあっけなく片付けられてしまっている。
原典で端的に済まされているからこそ、バイロンが創意を働かせる余地が多分にあったということなのだろうが、この点に関心のある方は有名なエピソードの宝庫である右の『創世記』を一度読まれてみてはいかがだろうか。

『カイン』は、正統教義に対して露骨に非難を浴びせたため、発表当時、称賛よりも批判が多かった問題作でもある。
しかし、主人公カインに見られる自尊心や反逆精神の表れも、今の世の中では称賛の的となるに違いない。
読者がついバイロンの私生活の反映をも見出してしまう『カイン』は、幅広い読者層に、中でも『マンフレッド』の読者には特に強くお勧めしたい一冊だ。

『トルストイの生涯』 ロマン・ロラン(岩波文庫)

トルストイの生涯 (岩波文庫)トルストイの生涯 (岩波文庫)
(1961/12/20)
ロマン ロラン

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書名:トルストイの生涯
著者:ロマン・ロラン
訳者:蛯原 徳夫
出版社:岩波書店
ページ数:289

おすすめ度:★★★★




真の芸術家を称えてやまなかった作家の代表格ともいえるロマン・ロランだが、そんな彼による、『ベートーヴェンの生涯』、『ミケランジェロの生涯』と並ぶ伝記作品がこの『トルストイの生涯』だ。
ロランによる注、訳者による解説を除けば、本文は220ページ程度と、決して長大な作品ではないため、トルストイの伝記的事実を網羅した作品であるとは言えないが、トルストイの作品や書簡からの豊富な引用を用いたロランならではのスタイルは本書にも顕著に表れていて、読者はまるでトルストイの肉声を聞いているかのような錯覚にすら陥りかねない。
たいていの読者は作家としてのトルストイ、作品に関係する範囲でのトルストイに関心があるように思うので、詳細な伝記的事実は他の作家による伝記に譲るとして、作家トルストイの素顔に迫るためには、彼の思想の根幹を垣間見ることのできるこの『トルストイの生涯』が最適の入門書となるのではなかろうか。

『トルストイの生涯』の章立ては、それが訳者による便宜上のものであるとはいえ、そのほとんどがトルストイの作品名となっており、文庫本にもなっているトルストイ作品の大半について言及されている。
戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『復活』といった有名長編作品はもちろん、『幼年時代』、『イワン・イリッチの死』、『クロイツェル・ソナタ』という章もあるという具合だ。
ただ、まれに作品の内容について、たとえば主要登場人物の行く末などについて明かしてしまう記述もあるので、これからトルストイの作品を読む予定で物語の筋などに触れられるのを好まれない方は、トルストイの作品を読んでから本書を手にした方がいいように思われる。

強いて『トルストイの生涯』の短所を述べるとすれば、生前手紙のやり取りをするなど、著者であるロマン・ロランとトルストイの間には個人的な交流もあったし、ロランがトルストイを師と仰いでいたという背景もあり、さほど批判精神を見出すことができないという点だろうが、一個の芸術家として自立した存在であるロランの書いたものだけに、追従たらたらといった作風では決してない。
あまり知られることのないトルストイの社会思想の概要をもつかむことができるし、作者ロランの気概もにじみ出ているので、トルストイもしくはロマン・ロランに関心のある方であれば必ずや多大な興味を持って読むことができる一冊だろう。

『サキ傑作集』 サキ(岩波文庫)

サキ傑作集 (岩波文庫 赤 261-1)サキ傑作集 (岩波文庫 赤 261-1)
(1981/11/16)
サキ

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書名:サキ傑作集
著者:サキ
訳者:河田 智雄
出版社:岩波書店
ページ数:206

おすすめ度:★★★★★




優れた短編作家として知られるサキの有名作品を集めたのがこの『サキ傑作集』である。
読みやすい上に面白い作品を数多く残しているにもかかわらず、日本での知名度はなぜかいまひとつの作家であるが、サキはO・ヘンリーに比せられる短編の名手でもある。
ポーやモーパッサンの流れを汲む、いわゆる落ちのあるストーリーの作家としては、一つ一つの作品が短くまとまっていることもあり、自信を持ってお勧めできるのがサキだ。
サキの短編集は他の出版社からも文庫本としていくつか出されているが、収録作品の内容からいうとこの岩波文庫版が最も優れているのではなかろうか。

『サキ傑作集』には、『アン夫人の沈黙』、『狼少年』、『開いた窓』、『スレドニ・ヴァシュター』など、サキの代表作を含む全21編が収録されている。
冷笑を誘う独特なユーモアセンス、ちくりと刺さる風刺のとげの心地よさ、物語の筋を前面に押し出した簡潔きわまるサキの文体、これらの虜となる読者も少なからずいることだろう。
サキ短編集 (新潮文庫)サキ短編集 (新潮文庫)
(1958/02)
サキ

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読みやすさと面白さをその特徴としている作家だけに、私のようにサキの他の作品をもっと読みたいと思われる読者も出てくるに違いない。
右は新潮文庫の『サキ短編集』で、岩波文庫の『サキ傑作集』との重複が多いとはいえ、『平和的玩具』、『ビザンチン風オムレツ』など、こちらも大いにサキらしい作品が集められている。
岩波文庫のほうと違い、新品での入手も可能なので、こちらも合わせてお勧めしたい。

夭折というほどではないにせよ、サキは四十代の半ばに第一次世界大戦の犠牲となっており、サキの作品を楽しむ読者からすると個性の強い作家の早すぎる死が悔やまれてならないところだ。
しかし、短編作家としての巧みな手腕を感じさせるサキの作品は、O・ヘンリーのそれと共に、これからも末永く生きながらえていくことだろう。

『対訳 バイロン詩集』 バイロン(岩波文庫)

対訳 バイロン詩集―イギリス詩人選〈8〉 (岩波文庫)対訳 バイロン詩集―イギリス詩人選〈8〉 (岩波文庫)
(2009/02/17)
バイロン

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書名:対訳 バイロン詩集―イギリス詩人選〈8〉
著者:ジョージ・ゴードン・バイロン
訳者:笠原 順路
出版社:岩波書店
ページ数:348

おすすめ度:★★★☆☆




バイロンの原詩を左のページに、その翻訳を右のページに載せたのがこの『対訳 バイロン詩集』である。
ドン・ジュアン』や『貴公子ハロルドの巡礼』といった代表作を含めた多数の作品から抜粋を行ったダイジェスト版であるため、いずれも断片的な印象は拭い去れないものの、バイロンの作品世界を広く俯瞰することができる点が最大の長所である。
岩波文庫の対訳イギリス詩人選シリーズの常で、各ページに脚注も添えられているので難解な語の解釈に困ることも少なく、オリジナルの英詩を鑑賞するのにちょうどいい構成となっているため、英詩に関する知識はそれほどなくても楽しめる一冊として、幅広い読者層にお勧めしたい一冊だ。

ロマン派を代表する詩人であるバイロンの特徴としてよく指摘されるのが、時流に対する反逆児としての自立性と、底流のように横たわる憂鬱さである。
先ほども名を挙げたバイロンの代表作である長編物語詩『ドン・ジュアン』と『貴公子ハロルドの巡礼』のほか、『海賊』、『マンフレッド』などといった劇詩も収録されている本書からは、そんなバイロン作品の性格を読み取ることができるのではなかろうか。

バイロンに限らず、詩人の精神世界の蒸留物である詩作品というものは伝記的事実の反映される部分が少なくないので、物語詩が大半を占めているとはいえども、バイロンの生涯に関して知られていることを学んでから読むと『対訳 バイロン詩集』の収録作品はよりいっそう味わい深く感じられるはずだ。
そういう意味では、巻末の解説部分を先に読むというのも悪くないように思う。

この『対訳 バイロン詩集』を参考にして、面白そうなバイロンの作品を探すのもよいだろうし、すでに全訳を読んだ作品の原詩を垣間見るというのもいいだろう。
とはいえ、知名度のわりに作品の邦訳が意外と少ないというのは、バイロンも他の詩人たちと同じである。
理想を言えば、詩はそのリズム感を堪能しつつ原詩を鑑賞するのがベストであるわけだから、『対訳 バイロン詩集』を足がかりに原詩の世界に踏み込んでみるというのはいかがだろうか。

『海賊』 バイロン(岩波文庫)

海賊 (岩波文庫)海賊 (岩波文庫)
(1952/05/05)
バイロン

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書名:海賊
著者:ジョージ・ゴードン・バイロン
訳者:太田 三郎
出版社:岩波書店
ページ数:187

おすすめ度:★★★☆☆




バイロンの長詩が抜粋ではなく全訳されることは少ないのだが、そのうちの一つが岩波文庫から出されたこの『海賊』である。
戦いに生きる男を中心に据えた、血と愛とに満ちた情熱的な作風は、数々の浮名を流した後にギリシアの自由のために立ち上がった作者バイロンの生涯と照らし合わせて考えてみるとき、非常に関心をそそるものといえるのではなかろうか。
悲劇にありがちな手法を踏襲した作品であるため、筋の運びに斬新さを求めることはできないものの、一刻一秒を争う緊迫感と登場人物たちの心の動きはよく伝わってくる作品である。

海賊の首領コンラッドは、自らがトルコ軍の攻撃の標的となっているとの情報を手に入れる。
それならばいっそ先制攻撃を仕掛けようと、愛する女に別れを告げて、勝つ見込みの少ない戦いへと赴くのだったが・・・。
いかに海賊であるとはいえ、毅然とした態度で自らの自由のために戦う主人公は、読者の共感を誘うに違いない。
主人公のコンラッドは、情に深いアウトローという、一種のヒーロー像の典型的な姿といえるかもしれない。

バイロンが戦闘の相手としてトルコを引き合いに出すのは、『ドン・ジュアン』にも見られるとおりだ。
また、広く地中海世界を旅しただけでなく、ヘレスポントス海峡を泳ぎ渡った経験を持つバイロンが、海を舞台にする男たちの詩を物したのは、当然といえば当然のことだったのかもしれない。

発表当時、『海賊』は売れ行きがよかったらしいが、現在の日本では新品が売られているのを目にすることが非常にまれな本となってしまっている。
映画やアニメで海賊が大いに流行っている今、バイロンの『海賊』が再び日の目を見てもおかしくないと思うのは私だけだろうか。
少なからざるバイロンファンのためにも、『マンフレッド』同様に復刊が、あわよくば改訳さえもが期待される一冊だ。

『マンフレッド』 バイロン(岩波文庫)

マンフレッド (岩波文庫)マンフレッド (岩波文庫)
(1960/03/05)
バイロン

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書名:マンフレッド
著者:ジョージ・ゴードン・バイロン
訳者:小川 和夫
出版社:岩波書店
ページ数:121

おすすめ度:★★★★




バイロンの代表的な劇詩といえば、真っ先にその名が挙がるのがこの『マンフレッド』ではなかろうか。
この『マンフレッド』を基に、シューマンが劇音楽を、チャイコフスキーが交響曲をそれぞれ作ったということもあり、バイロンの全作品中で最も名前の知られているものの一つとなっている。
また、ゲーテの『ファウスト』からの影響は早くから指摘されており、事実そのストーリー展開にはいくらか類似性が見られるため、バイロンに興味のある方だけではなく、『ファウスト』の読者が読んでも必ずや楽しめることだろう。
『マンフレッド』が作品自体として自立していることは言うまでもないことだが、同時に他の芸術作品との様々な連関性の下で鑑賞しうるのが『マンフレッド』の特徴でもある。

人智をきわめた男、マンフレッドは、いまだ獲得することのできぬある能力を求めて、精霊たちを面前にと呼び出す。
精霊たちとの語らいの中で、マンフレッドが見出したものとは・・・。
『マンフレッド』の読者は、人間における知性の役割とは何かを改めて考えさせられるのではなかろうか。
短い作品ではあるが読み応えは十分にあり、自らの聡明さではいかんともしがたい悩みを抱えるマンフレッドの姿は、末永く読者の記憶に止まるに違いない。

『マンフレッド』は、久しぶりに復刊になったかと思えばすぐに売り切れているという、岩波文庫にありがちな人気があるのかないのかよくわからない本の一つだ。
邦訳の出版状況からすると、バイロンに限らず、イギリスのロマン派詩人たちの作品は今日の日本ではさほど読まれていないのかもしれないが、その時代の詩人たちの作品群は、柔らかな、また力強い魅力にあふれた作品の宝庫であるように思う。
そしてこの『マンフレッド』は、剛の面と柔の面を兼ね備えた傑作として位置づけることができるのではなかろうか。
薄い分だけ安く買える本でもあるので、次の復刊の際にはぜひ読んでみていただきたい。

『ドン・ジュアン』 バイロン(冨山房)

ドン・ジュアン 上ドン・ジュアン 上
(1993/04/24)
G.G. バイロン

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ドン・ジュアン 下ドン・ジュアン 下
(1993/07/14)
G.G. バイロン

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書名:ドン・ジュアン
著者:ジョージ・ゴードン・バイロン
訳者:小川 和夫
出版社:冨山房
ページ数:546(上)、554(下)

おすすめ度:★★★★




バイロンの代表作であり、その死によって執筆が中断された未完の大作が、この『ドン・ジュアン』である。
物語の筋を語るだけではなく随所に作者バイロンが顔を出し、自らの考えを述べることもあれば私怨を晴らすための揶揄をも織り交ぜるという、いわゆる脱線の連続から成る作品であるが、それだけバイロンという人物像に接近しやすい著作ということができるだろう。
バイロンの伝記的要素に関しては丁寧な脚注が助けてくれるので、バイロンの入門書として読むのも悪くないように思う。

『ドン・ジュアン』は、言わずと知れたスペインの伝説的な放蕩児ドン・ファンを主人公に迎えた長編物語詩である。
若い頃に地中海世界を広く旅した経験を持ち、数多くの女性関係の噂されていたバイロンだけに、ドン・ジュアンが辿る各地を転々とする道筋や、恋多き数奇な運命は、どこかバイロンと重なるところがあるように感じられる。
本作のドン・ジュアンは、しばしば恋に溺れることがあるとはいえ、遊蕩児としてのイメージよりも折り目正しき紳士としての風格が強調されている部分が多く、ひょっとすると晩年のバイロン自身の理想を体現しているのがジュアンなのかもしれない。

実際のところ、バイロンの描くジュアンをふしだらに過ぎるといって責める読者は、今日の日本には存在しないことだろう。
当時のイギリス社会と比べて性的交渉がはるかに自由になったため、ジュアンの行動は取り立てて言うほど放埓であるとはもはや感じられないのだ。
そういう意味では、『ドン・ジュアン』に放蕩を重ねる主人公の描写を期待すると期待はずれになる可能性は否めないのだが、風刺と機知に富み、バイロンの性格を色濃く反映した作品である『ドン・ジュアン』は、いかに道徳が移り変わろうとも文学作品としてその寿命を永らえていくに違いない。

バイロンは比較的早くに日本に紹介されたイギリス詩人であるにもかかわらず、『ドン・ジュアン』の完訳が出版されるのは本書が初めてとのことらしい。
原書が大作であるのと同様、その翻訳も労作と呼ぶにふさわしい素晴らしい出来であるように思う。
脱線を嫌う読者には不向きであろうが、脱線をも楽しめるという方には強くお勧めしたい作品だ。

『対訳 ブレイク詩集』 ウィリアム・ブレイク(岩波文庫)

対訳 ブレイク詩集―イギリス詩人選〈4〉 (岩波文庫)対訳 ブレイク詩集―イギリス詩人選〈4〉 (岩波文庫)
(2004/06/16)
ウィリアム ブレイク

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書名:対訳 ブレイク詩集―イギリス詩人選〈4〉
著者:ウィリアム・ブレイク
訳者:松島 正一
出版社:岩波書店
ページ数:345

おすすめ度:★★★★




おそらく詩人としてよりは銅版画家として有名なウィリアム・ブレイクだが、彼の代表的な詩作品の多くを対訳の形で収録したのがこの『対訳 ブレイク詩集』だ。
「幻視者」と呼ばれることからもわかるように、特異な思想を抱いていたブレイクの神秘的かつ幻想的な詩風は誰にも真似のできない無二のもので、ロマン派というくくりの中に限らず、世界文学の中でもある意味で飛び抜けた存在である。
文学史の流れに収まりきらない個性の強い作家に関心のある方は、ぜひブレイクを手にしていただきたい。

本書には『無垢と経験の歌』、『セルの書』、『天国と地獄の結婚』、『アルビヨンの娘たちの幻覚』などが収録されている。
いずれもブレイクの性格をよく表すものとして抜粋されているようで、全訳でない部分が残念に思われるところもあるにせよ、詩人ブレイクの相貌を窺うには最適の一冊に仕上がっていると言えるだろう。

右は『無垢と経験の歌』の口絵である。
画家・銅版画家としても比類なき才能を発揮したブレイクは、自らの詩集の彩飾印刷にもこだわりを見せていて、詩作品だけではなく画業においても鑑賞者が掘り下げていく余地を大きく残している。
また、自らの詩集に付するためのものばかりでなく、詩人として敬愛していたダンテの傑作『神曲』の名場面を描いた水彩画も数多く残しており、知れば知るほど面白いのがブレイクという「幻視者」ではなかろうか。

ブレイクの詩は、少なからざる読者から支持を受けているに違いないにもかかわらず、あまり邦訳されていないというのが現状だ。
ブレイクの手になるイラストをそのまま再現した詩集が出されれば、そこそこ売れるように思うのは私だけだろうか。
岩波文庫のイギリス詩人選の一冊に入ったこの『対訳 ブレイク詩集』だが、英詩の対訳ということで、必ずしも万人が楽しめる本ではないかもしれないが、ブレイクのヴィジョンを共有してみたいと思われる方は、ぜひ本書を読んでみていただきたい。

『ノート〈2〉掟の問題』 フランツ・カフカ(白水uブックス)

ノート〈2〉掟の問題―カフカ・コレクション (白水uブックス)ノート〈2〉掟の問題―カフカ・コレクション (白水uブックス)
(2006/10)
フランツ カフカ

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書名:ノート〈2〉掟の問題
著者:フランツ・カフカ
訳者:池内 紀
出版社:白水社
ページ数:324

おすすめ度:★★★☆☆




白水uブックスから刊行されたカフカ・コレクションのうち、カフカの手稿を整理・出版した「ノート」の2冊目が『ノート〈2〉掟の問題』だ。
ノート〈1〉万里の長城』と同様、あまり一般の読者には向かないかもしれないが、カフカに高い関心を持っている方ならばぜひ読んでみていただきたいと思う。

カフカにおける「掟」といえば、『審判』の中の一エピソードでもある『掟の門前』を思い出される方も少なくないだろう。
そして本書の表題作である『掟の問題』。
ユダヤ系の家族に生を受けたカフカが、人より強い「掟」の観念を持っていたということなのかもしれない。
カフカの作品をその民族性に焦点を当てて読んでみるのも興味深い読み方であると思う。
カフカ寓話集 (岩波文庫)カフカ寓話集 (岩波文庫)
(1998/01/16)
カフカ

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『掟の問題』は、岩波文庫の一冊である『カフカ寓話集』にも収録されている。
こちらも同じ池内紀氏の編訳によるもので、カフカの輪郭を浮き彫りにする優れた小品が複数訳出された、お勧めの一冊だ。
ちなみに、『カフカ寓話集』とのタイトルにはなっているものの、必ずしも収録作品のすべてが寓話として読まれるべきものであるわけではなく、あくまで便宜上与えられた「寓話」にはあまり重きを置かなくても構わないだろう。

カフカの遺稿を託された友人のマックス・ブロートが、カフカ自身のすべて焼き捨てられるようにとの遺志を裏切ったことから、カフカは世界的な名声を博するようにもなった。
しかし、ブロートらによる編集によって、まったく悪意はないまでもカフカの原稿をも裏切ることとなったのではないか、そういう懸念は古くから存在した。
できる限りオリジナルのテキストに沿った翻訳を行うべきではないのか、そういう意味合いが込められての『ノート』という表題が、本書には付されている。
カフカという作家に少しでも接近したいと考えている読者は、カフカが遺した『ノート』を紐解いてみてはいかがだろうか。

『ノート〈1〉万里の長城』 フランツ・カフカ(白水uブックス)

ノート〈1〉万里の長城―カフカ・コレクション (白水uブックス)ノート〈1〉万里の長城―カフカ・コレクション (白水uブックス)
(2006/09)
フランツ カフカ

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書名:ノート〈1〉万里の長城
著者:フランツ・カフカ
訳者:池内 紀
出版社:白水社
ページ数:215

おすすめ度:★★★☆☆




白水社から白水uブックスシリーズで刊行されたカフカ・コレクションは、カフカの残した手稿も「ノート」と題して2冊に分けて出版しており、その前半部分を収めたのがこの『ノート〈1〉万里の長城』である。
職業作家ではなかったために作品の発表機会が限られていたカフカであれば、その手稿に生前発表した作品に劣らないクオリティの高い作品が眠っていたとしても何ら不思議はないが、本書はそのことを明かす短篇集であるといえるだろう。

『万里の長城』をはじめ、本書の収録作品は、手稿といえどもある程度まとまった形で読める。
とはいえ、カフカの作品の場合、第三者の目から見てそれが完成形に近いものかどうかを判断するのは難しいかもしれないが・・・。
カフカ短篇集 (岩波文庫)カフカ短篇集 (岩波文庫)
(1987/01/16)
カフカ

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『万里の長城』は、同じ池内紀氏による岩波文庫『カフカ短篇集』にも訳出されている。
こちらには『流刑地にて』、『判決』、『火夫』、『田舎医者』などの代表的な短編が複数収録されているうえに、文庫本ということでより一般向けの本であるといえようか。
カフカの作品は、短編に手稿の類を含めても決してそう豊富にあるわけではないので、どうしても重複が多くなってしまうのが常だ。
双方を照らし合わせたわけではないので確かなことは言えないが、出版年が20年ほど後の白水uブックスのほうが、その間の研究成果を反映させるなど、訳文には若干の手が加えられていると思われる。

『ノート〈1〉万里の長城』は、明確な原書が存在するわけではないので、ドイツ語さえ知っていれば誰でも訳出できるというわけではない。
そういう意味では、カフカ研究の第一人者である池内先生は格好の訳者であるといえよう。
初めてカフカを読まれる方には不向きの本であるが、カフカの作品を一つでも多く読みたいという方にはお勧めできる一冊だ。

『断食芸人』 フランツ・カフカ(白水uブックス)

断食芸人―カフカ・コレクション (白水uブックス)断食芸人―カフカ・コレクション (白水uブックス)
(2006/08)
フランツ カフカ

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書名:断食芸人
著者:フランツ・カフカ
訳者:池内 紀
出版社:白水社
ページ数:232

おすすめ度:★★★★




本書『断食芸人』は、表題作の他に『田舎医者』をはじめとするカフカが生前刊行、もしくは発表した作品を集めた短編集である。
現在ではいずれも数多くの文学者や研究者のみならず、一般のカフカの読者からも大いに注目を集めている作品ではあるが、発表当時はこれといった話題にもならなければ、少しは売れたカフカの他の作品と比べて決して売れ行きがよかったわけでもない。
カフカという作家自体にその向きがあるにせよ、本書の収録作品は後世に発掘された作品群という性格が強いと言っていいだろう。

本書に収録されている『断食芸人』と『田舎医者』の二編は、いずれもカフカが生前刊行した作品集の表題にも選ばれており、今でもカフカの短編の中で代表的な作品に数えられていて、カフカの短編集に収録されるなど、複数の翻訳が存在する。
『断食芸人』は、その名のとおり断食の様を見世物にする芸人の話で、カフカ・ワールドにおける虐げられた人物の典型像でもある。
一方『田舎医者』のほうはというと、ストーリー自体はカフカ以外の作家が物していてもおかしくないような筋なのだが、やはりその細部にはカフカの筆を感じさせるものがある。
これら二編以外の小品も、一つだけをとってみればどうということはない作品にも思われるが、カフカの作品世界に当てはめて考えてみると、格別な味わいのあるものが多いのではなかろうか。
変身・断食芸人 (岩波文庫)変身・断食芸人 (岩波文庫)
(2004/09/16)
カフカ

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『断食芸人』は、右に示すように『変身』と一冊になった本が岩波文庫からも出されている。
カフカの最も有名な作品である『変身』と併録されることからも、カフカ文学における『断食芸人』の重要性はおわかりいただけるのではなかろうか。

一見すると平凡そうなストーリーに秘められた、類まれな奥行きと、いわく言いがたい独特の味わい。
カフカの爪あとがくっきりと刻まれている作品群を、ぜひ堪能いただければと思う。

『流刑地にて』 フランツ・カフカ(白水uブックス)

流刑地にて―カフカ・コレクション (白水uブックス)流刑地にて―カフカ・コレクション (白水uブックス)
(2006/07)
フランツ カフカ

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書名:流刑地にて
著者:フランツ・カフカ
訳者:池内 紀
出版社:白水社
ページ数:184

おすすめ度:★★★★




表題作をはじめ、カフカの代表的な短編四編を収録したのがこの『流刑地にて』である。
カフカという作家は『変身』や『審判』といった中編・長編以外の作品にもその特徴が非常によく表れているため、カフカに関心のある読者であれば、カフカ像を補完するためにも、その短編作品に接することは不可欠であろう。
収録作品はいずれもカフカが生前刊行した作品ということで、第三者がカフカの死後に遺稿を編集した長編作品とは異なり、確実にカフカが意図したところのものが訳出されているという意味では、本書はカフカを知るための格好の手がかりとなるはずだ。

本書『流刑地にて』は、『判決』、『観察』、『火夫』が併録されている。
流刑地に設置された処刑のための奇妙な機械とそれを取り巻く人々を扱った『流刑地にて』は、現実味の薄まった血の香りの描かれた、いかにもカフカらしい作品である。
タイトルこそ似ているものの、『審判』とは異なる雰囲気を帯びている『判決』は、カフカの伝記的事実と照らし合わせて鑑賞すると大いに興味をそそられることだろう。
また、『火夫』は『失踪者』の第一章に該当するため、すでにその内容を知っている読者も多いかもしれない。
カフカ短篇集 (岩波文庫)カフカ短篇集 (岩波文庫)
(1987/01/16)
カフカ

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『流刑地にて』は、岩波文庫からも同じく池内紀氏の翻訳が出されている。
こちらは『カフカ短篇集』と題されているが、本書『流刑地にて』の収録作品との重複を含む約20の短編を収めており、カフカの短編世界を堪能するうえではこちらのほうが手頃でいいのかもしれない。

カフカ研究の第一人者であるにもかかわらず、専門家風を吹かせることのない池内先生の訳業は、いつもながらカフカ文学を一般の読者にも親しみやすいものとしてくれている。
変身』や『審判』を読み、さらに『流刑地にて』にも触れた読者は、他の作家には真似することのできないオリジナリティとミステリアスさが魅力のカフカ・ワールドにどっぷりとはまり始めることだろう。

『ピエールとリュース』 ロマン・ロラン(みすず書房)

ピエールとリュースピエールとリュース
(2006/05)
ロマン ロラン

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書名:ピエールとリュース
著者:ロマン・ロラン
訳者:宮本 正清
出版社:みすず書房
ページ数:124

おすすめ度:★★★★




ロマン・ロランの小説作品といえば『ジャン・クリストフ』と『魅せられたる魂』とに代表されるように長編作品のイメージが強いが、『ピエールとリュース』は100ページ少々の中編作品である。
平和論者として知られるロマン・ロランが戦争批判のために書いたという意図が透けて見える作品で、『ジャン・クリストフ』や『魅せられたる魂』といった長大な作品と比べれば当然ながら迫力や思想性には劣るものの、ノーベル賞作家であるロマン・ロランの手腕は十分に発揮されているように思う。

『ピエールとリュース』は、第一次世界大戦下のパリを舞台にしている。
ドイツ軍の空爆を受けている最中、ピエールとリュースという清い心を持った二人の男女が地下鉄で出会う。
その偶然の出会いをきっかけに、お互いに強く惹かれ始めるのだが、生贄を求めてやまない戦火は二人の間にも徐々に忍び寄ってきていた・・・。
個人的には結末部分が意外とあっさりとしていたような印象を受けたが、二人の交わす会話や時代背景を描き出す筆致はまさしくロマン・ロランらしいもので、戦争中という設定にも後押しされて非常に読み応えのある作品に仕上がっている。

いくらか乱暴な区分を行うとすれば、ロマン・ロランの作品は芸術家を主題にしたものと戦争を主題にしたものの二つに分類することができるように思うが、戦争ものである『ピエールとリュース』には、リュースが絵を描いて生計を立てていることから、ごくわずかながら芸術に関する部分もある。
また、主人公のピエールは『魅せられたる魂』の読者であればマルクを思い出させずにはいないのではなかろうか。
全般に『ピエールとリュース』はいかにもロマン・ロランの書いたものという作品となっているので、ロマン・ロランのファンであれば必ずや楽しめる一冊であると思われる。

細かい章立てのおかげで読みやすく、さらに作品世界を映し出す版画も各章の冒頭に掲載されているのですらすら読める。
数十年にわたり戦争のない平和な暮らしを享受している中、改めてロマン・ロランの反戦の訴えに耳を傾けてみてはいかがだろうか。

『ヘッセ詩集』 ヘルマン・ヘッセ(新潮文庫)

ヘッセ詩集 (新潮文庫)ヘッセ詩集 (新潮文庫)
(1950/12)
ヘッセ

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書名:ヘッセ詩集
著者:ヘルマン・ヘッセ
訳者:高橋 健二
出版社:新潮社
ページ数:211

おすすめ度:★★★★




車輪の下』や『デミアン』といった小説作品で有名なヘッセは、同時に現代のドイツ語圏を代表する詩人でもある。
そんなヘッセの詩作品の中から有名なものを150点ほど抜粋し、ほぼ時代順に配列したものがこの『ヘッセ詩集』だ。
ヘッセ自身が選抜して刊行した詩集ではないものの、文庫本という手軽さながら、詩人ヘッセの輪郭を把握する上で最適の一冊であると思うので、ヘッセの詩作品に興味のある方にはまず本書をお勧めしたい。

『ヘッセ詩集』は、詩人としてのヘッセを、『処女詩集』、『孤独者の音楽』、『夜の慰め』、『新詩集』、これらの詩集とその発表前後という四つの時期に区分し、それぞれ代表的な作品を集めた本であり、ヘッセの五十年以上に及ぶ詩人としての生涯を通覧できるように構成されている。
ヘッセの詩の特長として感じられるのは、社会からはみ出たアウトサイダーの孤独をうたったものが多いという点ではなかろうか。
はかないものの美しさをうたった詩や、恋愛に関する抒情詩もないわけではないが、小説作品においてと同様、ヘッセは恋愛感情よりも自己の精神のあり方を徹底的に見つめた詩人ということなのだろう。
それだけに悲しく、切ない詩風ではあるが、深刻に思い悩むヘッセの思いがひしひしと伝わってくるような気がするし、世の中から孤独を感じる人々がいなくならない限り、ヘッセの詩はいつまでも新鮮味を保ち続けるに違いない。

この『ヘッセ詩集』には、ヘッセの詩や散文を集めた『』や『』に収録されている作品と重複するものも散見するが、一定のテーマで絞り込んでいないだけに広くヘッセの詩作品を鑑賞できるこの『ヘッセ詩集』のほうが、より一般の読者向けなのではないかと思う。
ヘッセの詩に興味のある方はもちろん、ドイツの詩に関心のある方にも、本書『ヘッセ詩集』は非常にお勧めできる一冊だ。

『蝶』 ヘルマン・ヘッセ(同時代ライブラリー)

蝶 (同時代ライブラリー)蝶 (同時代ライブラリー)
(1992/03/16)
ヘルマン ヘッセ

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書名:
著者:ヘルマン・ヘッセ
訳者:岡田 朝雄
出版社:岩波書店
ページ数:173

おすすめ度:★★★☆☆




ヘッセの詩やエッセイなどから、蝶を主題にしたものや蝶を扱ったものを集めたのがこの『蝶』である。
』などと同様、ヘッセ研究の第一人者であるフォルカー・ミヒェルスの編集による本であり、ヘッセ自身が編んだ作品というわけではないが、幼い頃に蝶の収集に熱を上げていたことのあるヘッセが抱いていた蝶への思いがよく表されている一冊であると思う。
ヘッセという作家の中に占める蝶の位置付けの重要さはもちろんのこと、読者は蝶の美しさをも、再認識させられることだろう。

本書『蝶』は、制作年代の非常に幅広い、九つの散文と十一の詩から成っている。
インドでの体験を綴った散文、蝶のはかない命をうたった詩など、いずれもヘッセらしい哀愁に満ちたものが多く、それだけ味わい深いものばかりだ。
中でも、幼き日の思い出を語った『クジャクヤママユ』という散文が最も私の心に残っている。
ヘッセを好きな読者であれば、それぞれお気に入りの作品が見つかるに違いない。

『蝶』にはたいへん多くの蝶の挿絵や写真が入っているのもうれしい。
蝶といえばその姿形はもちろんのこと、極彩色の羽の帯びる美しさも最大の魅力の一つであるが、本書には彩色された銅版画がカラー版ならではの美しさをもって印刷されている。
蝶に詳しい方は興味を持って眺められることだろうし、私のように具体的な蝶の名称にきわめて疎い人間でも、ヘッセの散文や詩文を鑑賞する際の大きな助けとなってくれる。

ヘッセ自身の編集による本ではないから当然といえば当然かもしれないが、『』と同じく、この『蝶』も決してヘッセの代表的な作品には数えられることがない。
とはいえ、『蝶』にはテーマを絞った本特有の楽しみがあり、ヘッセのファンであれば一読の価値がある本だと思う。
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