『神秘の書』 バルザック(水声社)

神秘の書神秘の書

書名:神秘の書
著者:オノレ・ド・バルザック
訳者:私市保彦、加藤尚宏、芳川泰久、大須賀沙織
出版社:水声社
ページ数:432

おすすめ度:★★★☆☆




バルザックが自身の著作の中から神秘的傾向の強い作品を選び、一冊の著作として編んだのが本書『神秘の書』である。
人間喜劇の哲学的研究の中でも、その内容的な偏りからあまり紹介されることがないか、ひょっとすると敬遠すらされてしまう類の作品、すなわち『追放された者たち』、『ルイ・ランベール』、『セラフィタ』の三篇を収録している。
こういう種類の作品は、特異と言えば特異なのだが、裏を返せば、だからこそ読んでおくべきとも言えるのではなかろうか。

『追放された者たち』は、中世のパリを舞台とするというだけで、すでに他の人間喜劇の作品と一味違う。
神秘性はそれほど強くないが、歴史上のとある有名人物が登場するので、それだけでも興味深い作品であると言える。
『ルイ・ランベール』にも実在の人物が組み込まれていて、さらにはバルザック自身の自伝的要素も盛り込まれていて、リアリティ豊かな作品になっている。
こちらも神秘的というよりは、哲学的という形容がより正確であるような気がする。

『神秘の書』の中でも最も神秘色の強い『セラフィタ』は、過去に単行本が出されてもいる。
本書の中でも200ページ近くを占める『セラフィタ』は、やはりバルザックの神秘思想の中心に据えられるべき作品であろう。
本書の収録作品に限らず、バルザックの作品からは意外と神秘的な傾向を見て取ることができるというのは、よく指摘されていることでもある。

なかなか重厚な精神世界を描き出している『神秘の書』は、やはり一般向けの本であるとは言い難いが、間違って気軽に手を出してしまうようなタイトルの本でもないので、期待外れに終わることはそれだけ少ないだろう。
バルザックの神秘思想に触れてみたい方には、この本しかないと言える。

『まぶしい庭へ』 ディキンソン(KADOKAWA)

まぶしい庭へまぶしい庭へ

書名:まぶしい庭へ
著者:エミリー・ディキンソン
訳者:ないとうえりこ
出版社:KADOKAWA/メディアファクトリー
ページ数:63

おすすめ度:★★★★




ディキンソンの詩に、有名な絵本作家であるターシャ・テューダーの挿絵を添えて編まれた詩集が、本書『まぶしい庭へ』である。
春夏秋冬をテーマにした詩作品を、それぞれの季節ごとにいくつか選び出した作品となっていて、短い詩ばかりが収録されているものの、柔らかな挿絵の効果もあって、季節の移ろいを感じ取ることができる詩集になっているのではなかろうか。

『まぶしい庭へ』では、一つの詩に対して一つの挿絵が配されている。
詩を本書の中心ととらえてしまう私はそれらの絵を挿絵と呼んでしまうが、それだけでも十分に完成した絵本の世界を織り成すことのできる絵に対して挿絵と呼んだのでは、少々失礼な言い方になっているのかもしれない。
いずれにしても、それらの絵を通じて、ディキンソンが見ていたであろう風景を今日の読者が垣間見ることができ、詩人がその心に抱いていた原風景が見えてくるようで、たいへん興味深く感じられることは事実である。

本書の訳者である内藤氏自身が詩人であるだけに、他のディキンソンの翻訳書と比べて、『まぶしい庭へ』の訳文の語感のよさは際立っているように思う。
詩の訳文は、各々の読者によって好みの分かれやすいところなので一概には言えないが、ディキンソンはたぶんそれほど硬い詩を書きたかったわけではないと考える私にとっては、内藤氏の訳文は非常に心地よく読めるものであった。

本書『まぶしい庭へ』に訳出されている作品数は非常に少ないが、編者によるテーマの絞り方は、ディキンソンらしさを存分に引き出すことのできるものとなっている。
ディキンソンに関心のある方、ターシャ・テューダーに関心のある方、どちらも楽しめる一冊としてお勧めしたいと思う。

『わたしは誰でもない―エミリ・ディキンソン詩集』 ディキンソン(風媒社)

わたしは誰でもない―エミリ・ディキンソン詩集わたしは誰でもない―エミリ・ディキンソン詩集

書名:わたしは誰でもない―エミリ・ディキンソン詩集
著者:エミリー・ディキンソン
訳者:川名澄
出版社:風媒社
ページ数:144

おすすめ度:★★★★




ディキンソンの残した作品の中から、短いものばかり約60篇を集めたのが本書『わたしは誰でもない』である。
ディキンソンの詩は、そもそもが短いめのものではあるが、本書の収録作品は最長でも8行までと、特に短い小品ばかりが選ばれている。
おそらくはそのおかげで、それぞれの詩の制作年代はまちまちであるものの、詩集としては非常に統一感のある仕上がりになっている。

『わたしは誰でもない』には、愛、神、自然といったいかにもディキンソンらしいテーマに沿った詩が多く収められているので、ディキンソンの作品を好きな方ばかりでなく、ディキンソンがどういう詩人なのかをあまり知らない方が初めて読むにも適しているように思う。
孤独を愛する一人の女性の胸のうちからあふれ出る言葉の数々を読んでいるうちに、読んでいるこちらの胸まで優しい気持ちでいっぱいになってくるが、この感覚こそが、ディキンソンの詩が時代を越えて愛される理由の一つなのではなかろうか。

本書の構成は、右ページに原詩、左ページに訳文という、対訳形式となっている。
ディキンソンの原詩に触れることで、語数の少なさゆえにとっつきやすそうに感じられる反面、その解釈が意外と難しいことがわかるのではないかと思う。
率直なところを言えば、本書を読みながら、訳文がもう少しこなれたものであるといいと感じたことが何度かあったが、ストーリー性に乏しいディキンソンの短詩をうまく訳すのは、なかなか至難の業なのかもしれない。

ディキンソンの書くような内向的な詩は、一度読んだだけでは味わいつくせないのが普通だと思う。
文章量が少ないからといって、数時間のうちに一気に読み通して、それで終わりにしてしまうのももったいないと思う。
一人静かな黄昏時にでも、ゆっくりと味読されることをお勧めしたい。

『兵士の報酬』 フォークナー (文遊社)

兵士の報酬兵士の報酬

書名:兵士の報酬
著者:ウィリアム・フォークナー
訳者:加島祥造
出版社:文遊社
ページ数:484

おすすめ度:★★★★




フォークナーの処女作となるのがこの『兵士の報酬』である。
フォークナーもいわゆるロスト・ジェネレーションの作家の一人と評されることが多いが、『響きと怒り』や『アブサロム、アブサロム!』といった代表作を読んでいる限り、その肩書があまりしっくりこないと感じる読者が多いかもしれない。
その点、戦争を経た若者たちを主な登場人物とするこの『兵士の報酬』を読めば、以後その違和感は消えてなくなるに違いない。

『兵士の報酬』は、第一次世界大戦後の帰還兵の物語である。
死んだと思われていた青年マーンがアメリカの郷里に帰ってくるのだが、顔に大怪我を負っているだけでなく、記憶まで喪失して帰ってきたものだから・・・。
一般にフォークナーと聞けば想像されるような南部ものと比べると、『兵士の報酬』で描かれている作品世界はけっこう異なるものとなっている。
そうはいっても、未熟な青年、粗暴な男、浮薄な娘、大胆な女性など、いかにもフォークナーが描きそうな人物像には事欠かない作品と言えると思う。

フォークナーといえば難解な作家としても知られているが、『兵士の報酬』から難解という印象を受ける読者は少ないはずだ。
一文が短い上に、会話部分も多いので非常に読みやすく、フォークナーらしい重厚な文体による読み応えある作品を期待すると、かえって裏切られるかもしれない。

フォークナーの創り上げた作品群を思い浮かべると、『兵士の報酬』を彼の典型的な作品の一つとみなすことはできなさそうだが、この小説がフォークナーの作家としての出発点となったという事実は案外うなずける気がする。
フォークナーに興味のある方にはお勧めできる一冊だ。

『生きる歓び』 エミール・ゾラ(論創社)

生きる歓び (ルーゴン=マッカール叢書)生きる歓び (ルーゴン=マッカール叢書)

書名:生きる歓び
著者:エミール・ゾラ
訳者:小田光雄
出版社:論創社
ページ数:424

おすすめ度:★★★★




ルーゴン・マッカール叢書の第十二巻に当たるのが本書『生きる歓び』である。
叢書中の内容的なつながりでいうと第三巻の『パリの胃袋』に続く作品ということにはなるが、単独で読んでも特に支障はないと思えるほどに相互の連関は薄く、それぞれ独立した鑑賞が可能になっていると言えるだろう。

『生きる歓び』の舞台は、人里離れた海沿いの小村である。
一族にまつわる遺伝的要素を受け継ぎつつも、純真さと慈悲の心を持つ孤児ポリーヌが、親戚の家に引き取られる。
豊富な遺産を抱えてやってきた娘に、新しくできた家族の面々も最初は誠実さに満ちた親切を尽くしていたのだが・・・。
舞台は終始同じで閉鎖的であり、登場人物も多くはないため、『生きる歓び』からはわかりやすい構成で淡々と続いていく物語という印象を受けるかもしれない。
確かに全般にこれといった派手さはないが、それでも各章のドラマは読者を楽しませるに足るものとなっているから不思議なものだ。

ゾラにしてはポジティブさを感じさせるタイトルである『生きる歓び』ではあるが、その内容はいかにもゾラらしく、堕落しきった社会のはみ出し者だけでなく、身内の人間の不親切や身勝手、さらには怠惰や裏切りといった、読者を不愉快にさせるような人間社会の負の側面は随所に盛り込まれている。
『生きる歓び』がゾラの代表作とされることはほぼないとはいえ、作風はゾラらしいものになっていると言えるはずだ。

ルーゴン・マッカールの家系図におけるポリーヌの位置付けから判断しても、正直なところ『生きる歓び』を叢書中の重要な著作とみなすことは少々難しいが、作品の完成度にはさすがゾラと感じさせるだけのものがある。
夢想』とともに、叢書中の異色の一冊としてゾラのファンにお勧めしたいと思う。

『O侯爵夫人 他六篇』 クライスト(岩波文庫)

O侯爵夫人 他六篇 (岩波文庫 赤 416-4)O侯爵夫人 他六篇 (岩波文庫 赤 416-4)

書名:O侯爵夫人 他六篇
著者:ハインリヒ・フォン・クライスト
訳者:相良 守峯
出版社:岩波書店
ページ数:259

おすすめ度:★★★☆☆




岩波文庫から出されているクライストの短篇集が本書『O侯爵夫人 他六篇』である。
表題作である『O侯爵夫人』を除けば、河出文庫から出されたクライストの短篇集である『チリの地震―クライスト短篇集』と収録作品が完全に重複しているため、訳の新しいそちらをお勧めすべきかもしれないが、クライストに関心のある方が『O侯爵夫人』を読まずにいるのは少し惜しい気がする。

『O侯爵夫人』はその書き出しが鮮烈で印象深い。
とあるイタリアの町で、貞淑な未亡人として知られるO侯爵夫人が、「私は身に覚えがなく妊娠しているようなので、心当たりのある殿方は名乗り出てほしい」という趣旨の新聞広告を出すというのだから、なかなか珍妙な話である。
その殿方が誰なのか、読者は容易に確信できるので、登場人物たちと一緒に謎解きを楽しむというわけにはいかないが、それでも尋常ならざる状況に置かれたO侯爵夫人一家の描写は、読む者の興味を引き付けてやまないことだろう。
世界の文学〈5〉シラー.クライスト―新集 (1972年)世界の文学〈5〉シラー.クライスト―新集 (1972年)

『O侯爵夫人』を読むには、右の文学全集もお勧めである。
これには『こわれがめ』も『ミヒャエル・コールハースの運命』も訳出されていて、クライストの有名どころがこの一冊で網羅できてしまうだけではなく、『ヴィルヘルム・テル』や『たくみと恋』といったシラーの戯曲も収められているという充実ぶりだ。
それにしても、この類の文学全集の出版が下火になってしまったことが残念でならないのは、私だけではないだろう。

収録作品がほぼ重複している河出文庫の『チリの地震』がある中で、あえて岩波文庫の『O侯爵夫人』を手にしようとする人はかなり限られてしまうのではなかろうか。
しかし、『O侯爵夫人』はそんな少々マニアックな方の期待を裏切らないはずの作品だと思う。

『ミヒャエル・コールハースの運命』 クライスト(岩波文庫)

ミヒャエル・コールハースの運命―或る古記録より (岩波文庫)ミヒャエル・コールハースの運命―或る古記録より (岩波文庫)

書名:ミヒャエル・コールハースの運命―或る古記録より
著者:ハインリヒ・フォン・クライスト
訳者:吉田 次郎
出版社:岩波書店
ページ数:114

おすすめ度:★★★★




クライストの小説作品といえば、何はともあれこの『ミヒャエル・コールハースの運命』である。
どことなくシラーに通ずるような精神性がにじみ出ており、執筆された時代性をも感じることができる作品に仕上がっていると言えるように思う。

『ミヒャエル・コールハースの運命』は、その巻頭で語られるとおり、誠実この上ない馬商人だったコールハースが司法に逆らう盗賊となるまでを描いた小説である。
コールハースが馬を売りに出かけたところ、通りがかった土地を治める領主に馬を担保として要求され、そこに仕方なしに馬を預けていったところまでは特に問題もなかったのだが・・・。
本書を手にする読者はみな、国民としての権利を不当に踏みにじられたコールハースに対する共感を強く心に抱きながら読み進めていくに違いないので、それだけいっそうストーリーに引き込まれやすくなっていることだろう。
政治的な駆け引きや神秘的なエッセンスも盛り込まれていて、一つの作品としての彩りも豊かであるといえる。
世界の文学〈5〉シラー.クライスト―新集 (1972年)世界の文学〈5〉シラー.クライスト―新集 (1972年)

『ミヒャエル・コールハースの運命』を読むには岩波文庫が一般的かと思うが、仮名遣いが古くて少々読み辛いのが短所であり、これでは『ミヒャエル・コールハースの運命』の備える展開の軽快さが損なわれることにもなりかねない。
その点、右に紹介する文学全集に収められている国松孝二氏の訳文は、仮名遣いが新しいだけではなく、そもそも訳文も読みやすいので、流通量は少ないがこちらもお勧めである。

クライストのストーリーテラーとしての才能が遺憾なく発揮されている『ミヒャエル・コールハースの運命』は、どれだけ控えめに言っても、かなりよくできた作品である。
個人的には、クライストの代表作とされる『こわれがめ』よりも楽しめたし、本書を読みながら退屈する読者を想像するのはちょっと難しいと感じてもいる。
クライストに興味のある方には強くお勧めしたい作品だ。

『メルヴィル中短篇集』 メルヴィル(八潮版・アメリカの文学)

メルヴィル中短篇集 (八潮版・アメリカの文学)メルヴィル中短篇集 (八潮版・アメリカの文学)

書名:メルヴィル中短篇集
著者:ハーマン・メルヴィル
訳者: 原 光
出版社:八潮出版社
ページ数:493

おすすめ度:★★★★




書記バートルビー/漂流船 (光文社古典新訳文庫)書記バートルビー/漂流船 (光文社古典新訳文庫)ビリー・バッド (光文社古典新訳文庫)ビリー・バッド (光文社古典新訳文庫)
メルヴィルの中篇・短篇小説合わせて16篇を集めたのが本書『メルヴィル中短篇集』である。
バートルビー』、『ベニト・セレノ』、『ビリー・バッド』のように文庫本にもなっている有名どころは当然ながら、メルヴィルの中短篇作品のほとんどを本書が網羅しているので、メルヴィルに興味のある方には必読の一冊と言えるのではなかろうか。
八潮出版社から出されている原氏の他の訳書と同様、この『メルヴィル中短篇集』もなぜか仮名遣いが少々古いものとなっているが、慣れればどうということはないし、若い方でも読んでいられないというほどではないと思う。

本書には、上記の作品の他に、ガラパゴス諸島を舞台としたエッセイ風の『魔法群島』、落ちぶれた資産家の末路を哀愁深く描いた『ジミー・ローズ』、塔や煙突などへの偏執といってもよいほどの執着心を取り扱う『鐘塔』や『わたしとわが煙突』などが収録されている。
個人的なお勧めは、屋根裏部屋で見つけたテーブルから夜な夜な奇怪な音が聞こえてくるという『林檎の木の卓』で、オカルト風のテーマに理性的に挑むという切り口が、どことなくポーを思い出させるような作品だ。

また、『二つの聖堂』、『貧者のプディングと富者の食べ残し』、『独身者の楽園と処女の地獄』の3篇は、イギリスとアメリカを舞台とする対照的な二部構成という、一種のシリーズものとでもいえようか。
いずれも一般的なメルヴィルのイメージを覆すかもしれない軽いタッチの作品で、センチメンタルな作風に仕上がっているのが妙に新鮮に感じられるのは私だけではないだろう。

メルヴィルの作品といえば、回りくどい描写によって物語が遅々として進まないところが短所であり、それが同時に独特の読み応えを生み出す長所でもあるのだが、短篇作品となるとさすがにそうもしていられないからか、物語の展開はそこそこ早いものがほとんどだ。
短篇小説が注目されることの少ないメルヴィルではあるが、メルヴィルの新たな一面の垣間見を楽しみたい方にはお勧めの一冊だと言える。

『チリの地震―クライスト短篇集』 クライスト(河出文庫)

チリの地震---クライスト短篇集 (KAWADEルネサンス/河出文庫)チリの地震---クライスト短篇集 (KAWADEルネサンス/河出文庫)

書名:チリの地震―クライスト短篇集
著者:ハインリヒ・フォン・クライスト
訳者:種村 季弘
出版社:河出書房新社
ページ数:238

おすすめ度:★★★☆☆




戯曲作家として有名なクライストの短篇小説集が本書『チリの地震』である。
クライストが遺した短篇小説自体も数は決して多くはなく、少し長めの作品を除けば、本書ですべて読むことができるようだ。

本書には、表題作である『チリの地震』の他、『聖ドミンゴの婚約』、『ロカルノの女乞食』、『拾い子』、『聖ツェツィーリエあるいは音楽の魔力』、『決闘』の短編小説6篇と、『話をしながらだんだんに考えを仕上げてゆくこと』、『マリオネット芝居について』というエッセイ2篇が収録されている。
クライストの短篇小説は、全体的に暴力的な印象を受ける作品が多く、狂暴性とか破滅的といった表現がけっこうしっくり来る気がするが、それらの特徴とも相まって、筋書きが緊迫感に富んでいるとも言えるだろう。
個人的なお勧めは聖ドミンゴ島の白人と黒人の闘争を描いた『聖ドミンゴの婚約』で、展開のスリリングさから判断すれば本書随一なのではなかろうか。

本書に収録されているエッセイに関しては、おそらくは軽く読み流す読者が大半であろう。
かなりの数のエッセイを書いていたクライストではあるが、そもそもエッセイストとしてのクライストに強い期待を抱いている方も少ないだろうし、本書のエッセイ2篇にしても、それほどクライストという作家の精神を浮き彫りにする種類のものではないように感じられる。

イギリス文学でいうところのド・クインシーのように、クライストはドイツ文学界で美しい文章を書く散文家として知られているらしい。
残念ながら種村氏の訳文が美文であるとは言い難いのだが、本書『チリの地震』の中でいうと、エッセイ『マリオネット芝居について』あたりがそれを実感しやすいのではないかと思う。
そういう意味では、クライストに興味のある方だけではなく、ドイツ文学全般に関心のある方にもお勧めできる一冊だ。

『こわれがめ』 クライスト(みすず書房)

こわれがめ―― 付・異曲 (大人の本棚)こわれがめ―― 付・異曲 (大人の本棚)

書名:こわれがめ― 付・異曲
著者:ハインリヒ・フォン・クライスト
訳者:山下 純照
出版社:みすず書房
ページ数:208

おすすめ度:★★★★




クライストの、ひいてはドイツ文学を代表する喜劇作品が、この『こわれがめ』である。
作品完成当初はあまり評価されず、後世の再評価によって名を高めたという作品ではあるが、滑稽味だけではなく風刺的な側面も備えていて、多くの読者を楽しませてくれるだろう。

オランダのとある田舎町で、顔に怪我を負った村長でもあり裁判官でもある一人の男が朝を迎え、頭の中も身の回りもろくに整理がつかないでいるうちに、司法官が抜き打ちで巡視に来てしまう。
司法官を前に普段通りの裁判を行う羽目になり、早速、壊れた甕の犯人を判定してほしいという事件が持ち込まれて・・・。
今日においても、裁判ドラマは人を魅了し続けているが、『こわれがめ』もその一種とみなすことができるだろう。
冗漫に感じられる部分もあるものの、全体的には謎が解き明かされていくスリリングさと滑稽さのバランスがよく、さすがに傑作と言われるだけのことはあるというものだ。
こわれがめ (岩波文庫)こわれがめ (岩波文庫)

日本でも何度か舞台で上演されたことがあるほどに有名な作品であるにもかかわらず、出版界からは不当とも言えるほどに等閑視されがちのこの『こわれがめ』は、古くは岩波文庫で読むのが主流だったのではなかろうか。
みすず書房から2013年に刊行された『こわれがめ』には、副題に「付・異曲」とあることからもわかるように、改作前のヴァリアントが収録されていて、読者がクライストの当初の意図に近付けるというのが長所になるだろう。
また、みすず書房版は訳注や解説が豊富なのも特徴となっており、『こわれがめ』をより深く理解し、楽しむことができるに違いない。

若くして自ら世を去る決断をしたクライストには、多くの作品を世に遺すだけの時間的ゆとりがなかったが、読み応えのある作品を書いた作家であることは誰もが認めることだろう。
代表作の『こわれがめ』を皮切りに、クライストの繊細な精神に触れてみていただければと思う。
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